奈良で幼児が惨殺されるという事件が起きた。この女児が行方不明の段階で、家族宛てに「娘は貰った。」というメールが送り付けられ、一緒に女児の画像が添付されていた。側溝に放置された彼女の死体には、身体の到る所に刃物等で傷付けられた跡が在ったという。送り付けられた画像は、既に殺害された後のものだった可能性が高い事も判明。何の罪も無い無抵抗な幼女を、惨殺したという事実だけでも許し難いが、最愛の子の行方を必死になって捜している親に対して、この様な画像を送り付ける犯人の異常性に激しい怒りを覚える。
かつて、連続幼女誘拐殺人事件や酒鬼薔薇聖斗事件等が起こった際、自分の欲望を満たすだけの為に幼児殺害に走った犯人を、八つ裂きにしても余りある存在と感じた。今回も同様だ。
自分は性善説よりも、性悪説の立場を採っている。法律面ではなく感情面から言えば、怨恨等の理由が無く(殺人という行為が、どんな動機からであれ許されないのは言うまでもない事だが。)、人の生命を弄ぶ輩は即刻死刑に処して欲しいと思う。百歩譲って、「無知の涙」を著した永山則夫死刑囚の様に、幼少時から世間を恨まずにはいられない様な仕打ちを受けて来た人間に対して、情状酌量が成されるのはまだ判るが、今回の事件の犯人には当該しないだろう。
理不尽で残酷な殺人を成した者を公開処刑する事で、犯罪抑制に繋がるのではないかという考えを持っていた。「人な行為を成せば、こういう目に遭う。」というのを見せ付けられれば、踏み止まる人間も多いのではないかと思ったからだ。
しかし、イラクで人質となった香田氏の殺害写真や動画が、「チェーンメール」として携帯でやり取りされていたというニュースを見ると、「これ程迄に人の死が軽んじられる世の中になってしまったのか。」と暗澹たる気持ちになると共に、そんな世の中であれば、公開処刑は殺人の抑制効果になり得ず、単なる”ショー”の一つとして捉えられてしまうのではないかという思いが沸いて来た。
かつて、連続幼女誘拐殺人事件や酒鬼薔薇聖斗事件等が起こった際、自分の欲望を満たすだけの為に幼児殺害に走った犯人を、八つ裂きにしても余りある存在と感じた。今回も同様だ。
自分は性善説よりも、性悪説の立場を採っている。法律面ではなく感情面から言えば、怨恨等の理由が無く(殺人という行為が、どんな動機からであれ許されないのは言うまでもない事だが。)、人の生命を弄ぶ輩は即刻死刑に処して欲しいと思う。百歩譲って、「無知の涙」を著した永山則夫死刑囚の様に、幼少時から世間を恨まずにはいられない様な仕打ちを受けて来た人間に対して、情状酌量が成されるのはまだ判るが、今回の事件の犯人には当該しないだろう。
理不尽で残酷な殺人を成した者を公開処刑する事で、犯罪抑制に繋がるのではないかという考えを持っていた。「人な行為を成せば、こういう目に遭う。」というのを見せ付けられれば、踏み止まる人間も多いのではないかと思ったからだ。
しかし、イラクで人質となった香田氏の殺害写真や動画が、「チェーンメール」として携帯でやり取りされていたというニュースを見ると、「これ程迄に人の死が軽んじられる世の中になってしまったのか。」と暗澹たる気持ちになると共に、そんな世の中であれば、公開処刑は殺人の抑制効果になり得ず、単なる”ショー”の一つとして捉えられてしまうのではないかという思いが沸いて来た。
この様な犯人の所業に強く怒りを感じます。
私自身以前お話した通り
人間を「性善説」で出来るだけとらえたいという思いがあります。
ですがこの様な事件が発生する度に
その気持ちは大きく揺らぎます。
善悪二元論では論じられない程
人間は変わってしまったのかもしれません。
ただ今回の犯人に対しては
犯人の背景も法の情けもあったものではありません。
唾棄すべき獣に対してはそれ相応の報いを取らせるべきだと私も思います。
そしてgiants-55様の仰るように
人の死が軽んじられる世の中になってしまったと
私も共感を覚えます。
「命」に対して現実感が無くなったのでしょうか…?。
私は未だに「何故か」分かりません。
母親の気持ちを考えると、なんだか気が滅入ってしまって辛いです。
駅前の交番が再開発で目立たないところに移されたり、普段の県警の姿勢にも???です。
とろいと評判の奈良県警、今回は頑張ってほしいです。
教育から宗教的なことを徹底的に排除していった為。死に対するイメージが沸かないんですよ。昔の日本人でしたら穢れとかし死穢とか現実のものとして捉えていたのが、死(体)に対する恐怖心とか想像力が年代が下るほど欠如していっていると思います。
日本人として当たり前の感覚。いうなれば日本人らしさと言うのがここ20年ほどで急速に失われているのでしょう。
そう言われてみれば、この世界につまらん餓鬼の喧嘩(戦争)が絶えないのも、ある意味..納得?出来るような気もしますが、私利私欲に始まって、国益に至るまで世界中がつかみ合いをしている中で、教育の主旨も正にその為にのみ存在しているのが現状ではないでしょうか.....昨今、人は科学的根拠により、環境問題に関しての意識は高まっているようです。しかし最も恐れるべきは、人の精神的な汚染であり、科学的な裏付けが取れない事象であるだけに、気付いた時には取り返しのつかない事態になってしまう恐れが大だと思うのです。.....コメントがかなり本題からずれているかも知れませんが、ここ一連の鬼畜的殺傷事件も、人類のそう言った終末的傾向への兆候に思えてなりません。....私的に、死刑反対論者の安っぽいヒューマニズムには吐き気を覚えますが、例え犯人を釜ゆでの刑にしても、問題解決にはならないであろう事も事実と考えます。
基本的に、書き込みして下さった方のブログへ、直接レスを付けさせて戴く形を取っているのですが、貴ブログが見当たりませんでしたので、こちらに書き込む失礼の段を御許し下さい。
「人間の精神年齢は、通常11~12歳で成長が止まってしまう。」という話は、知りませんでした。実に興味深い説です。そうなると、11~12歳迄に如何に自身を高められるかが大事という事なんでしょうね。
同じ11~12歳の精神年齢であっても、昔と今とでは、中身の濃さが違うのかも。それこそ、彩木様が仰る所の”精神的な汚染”が進み過ぎてしまったと言う事かと。
安直なヒューマニズムで死刑反対を叫ぶ、自称人権派の著名人には、自分も辟易とします。
これからも宜しく御願い致します。
一部私の文章表現の不備にて誤解が生じてしまったようですので、追伸させて頂きますです。
人の精神年齢が、11〜12歳で止まってしまうと言うのは、現教育システム(特に先進諸国)に於いての話しなのです。....つまり、人の精神的成長は本来は死ぬまで続くものであり、それが早期に止まってしまうのは、12歳を越えたあたりから、「人が大人になる」...イコール=より高い地位や生活レベルを手にする為のテクニックの向上に限定されて行き、個人の利益...会社の収益....国益と言った物理的..金銭的な数値を向上させるテクニックを磨くことが、あたかも「人間の成長」であるかの如く錯覚をしてしまうと言う事、...私は新聞紙面やTVニュースを賑わす悲劇や喜劇の9割がたは、社会が人の精神的成長と言うものを無視してきた結果の産物に違いないと考える訳です。
国の教育システム、と言うよりも何に価値を見出す国状であるかという事が、精神年齢の発達に大きく影響を及ぼすという事ですよね?それは確かに言えますね。環境如何で、如何様にでも変われるのが人間ですしね。