脚本家の内館牧子さんは週刊朝日で「暖簾にひじ鉄」というコラムを連載されているが、10月21日号のタイトルは「クロワッサン食うな」だった。16年前の2000年、彼女はNHKの連続テレビ小説「私の青空」の脚本を担当されており、其の際に経験した事を書いた内容。
未婚の母として、一人息子の太陽を女手一つで懸命に育てている北山なずなが主人公の此の作品。「狭いアパートに住み、朝から晩迄働き詰めという困窮生活を送り乍らも、懸命に笑って生きるシングル・マザーの姿。」を、内館さんは描きたかった様だ。
そんな或る日、なずなが太陽とクロワッサンを食べる場面が放送されると、少なからずのクレームがNHKや内館さんの事務所に届いたのだとか。
*********************************
・「なずなは母子家庭なのに、クロワッサンを食べている。」。
・「なずなはイヤリングなんかしている。」。
・「母子家庭なのに、テーブルクロスを掛けているんですね。貧しかったら、そんな所に御金は使えません。内館さんの脚本は現実と掛け離れています。」。
・「なずなさんは沢山洋服を持っているんですね。毎回着ているTシャツやセーターが違いますから。母子家庭なのに、内館さんは現実を知らなさ過ぎます。」。
・「太陽は御飯を御代わりしますが、貧しい家の子は、御代わりをしちゃいけないと判っています。」。
*********************************
要は、「生活が苦しい母子家庭=『おしん』【動画】の様な生活でなければおかしい。」という“絶対的な固定観念”を持った人達にとっては、クロワッサンを食べたり、花を飾ったり、子供が御代わりをしたりなんていうのは、「100%在り得ない設定。」という事なのだろう。
内館さんは脚本を書くに当たって、多くのシングル・マザーに取材した。誰もが「生活は決して楽では無く、とても貯金する余裕も無い。子供の将来に付いても非常に不安。」と語っていたが、同時に彼女達が口を揃えて言っていたのは、「切り詰めるだけの生活だと苛々するし、子供に当たったりもする。ですから、ガス抜きします。」という事。
其の“ガス抜き”とは「良い珈琲豆を買う。」事だったり、「月に1回だけ、子供と外食する。」事だったり、「セールの時に、服を買う事。」だったりと、貧しい中でも“細やかな潤い”を取り入れる事だった。彼女達の「心が打ち切れない工夫や、苦しい中で、少しでも豊かな気持ちになれる様、頑張って生活を組み立てている姿。」に、内館さんは感心したと言う。
クレームが少なく無かった事から内館さんは、以降、ドラマの中で「服は友達のを貰うから、沢山在るんだ!」とか、「楽しんで暮らす事を考えて、シングル・マザーだからこそ、皆工夫してますよね。御花を買ったり、良いパンを買ったり。」等の台詞を然りげ無く入れる様にした所、クレームはピタリと来なくなったそうだ。
「8月にNHKの『ニュース7』で、「子供の貧困」という特集が放送。経済的に苦しい母子家庭の女子高生の生活を密着取材した内容だったが、“おしんの様な生活”をしていない彼女に対し、『生活苦なんて嘘だ!』という批判が殺到した。」のは、記憶に新しい所。こうなると、クレームを恐れる放送局は、「子供の貧困」を取り上げる際、“おしんの様な生活”をしている子供だけを、意識的に選ぶ事だろう。
青森県黒石市の写真コンテストで、自殺をした女子中学生が被写体だった事を理由に、内定していた最高賞が取り消された問題に関して、コンテストを主催する黒石市役所に、「自殺した少女の親も受賞に肯定的で、作品としても素晴らしい物なのに、『自殺した。』という事実だけで内定を取り消すのはおかしい。」といった抗議が殺到したのは、つい先日の事。
結局、市側は内定取り消し事態を取り消し、改めて最高賞を贈る事に決めた。「被写体の少女が自殺したから。」という理由“だけ”で、内定していた最高賞を取り消した市の判断は自分もどうかと思うし、だからこそ改めて最高賞を贈る事にした判断は正しいと考える。
でも、同時に「被写体の少女が自殺した作品に最高賞を与えると、後から批判が殺到しそう。」と恐れたで在ろう市の判断も、全く理解出来なくは無かったりする。
東京新聞には「紙つぶて」というコラムが連載されているのだけれど、昨日の夕刊では作家で劇作家でも在る本谷有希子さんが「触ってはいけません」というタイトルで書かれていた。
*********************************
「触ってはいけません」
「信じられる?雪を触ってはいけませんってお達しが、学校から出るんだよ。」。
最近の学校事情をいろいろ訊いていたら、小学生の子を持つKさんが教えてくれた。
「どうして触っちゃ駄目なの?」。北陸出身の私からすれば、雪は人にぶつけるものである。
「それがね、特に理由とかは教えてもらえないんだって。たぶん滑って危ないとか、衛生上の問題なんだろうけど。」。私は笑った。そんないいつけ、誰も守るはずないじゃん。だがKさんの娘さんと同じクラスの子供たちは拍子抜けするほどあっさり納得してしまったらしい。
私は雪が積もった道を脇目も振らず真顔で行進する子供の列を想像した。「雪を触るな。」なんて言ういいつけを「わかりました。」と納得する子供のことが、なんだかどんどん心配になってきた。
大人が根負けするまで、「なんで?」、「どーして?」と問い詰め続けるものじゃないのか。もし子供に純粋な疑問をぶつけられたら、私だってほとんどまともに答えられないだろう。でも、それでいい。子供たちには私の使っている言語を理解してもらいたくない。
「覚えておきなね。お母さんの言ってることはメチャクチャだからね。」。まだ言葉を話せない生後11か月の娘に向かって、私はそう説明した。
*********************************
「意味不明な言い付けを、何の疑問も持たずに従っている子供達。」というのは確かに自分も不安を感じるけれど、其れは扨措いて、「雪を触ってはいけない。」という御達しを出した小学校に付いて考えると、恐らくは記事で書かれている様に、「雪を触ろうとして滑って怪我したり、雪を触った事で衛生的な問題が発生した場合、生徒の親がクレームを行って来るのではないか?」という“恐れ”を、学校側が持ったと思われる。
“真っ当で且つ常識的な範囲でのクレーム”は別だが、“異常なレヴェルのクレーム”が幅を利かす様になると、社会はどんどん委縮して行く事だろう。兎角に人の世は住み難い。
とかく何でもクレームを付けないと気が済まない人たちがいるようです。
理不尽と思う事柄にクレームを付ける行為は当然かと思いますが、クレームを受ける側にも確固たる信念があるなら、それを堂々と論理的に主張し議論を深めるべきで、安易に妥協すべきではないでしょう。
ましてや初めから事なかれ主義では何も解決になりませんね。
もし最初から斟酌が必要であるなら、弱者の心に寄り添ったものであるべきだと私は思います。
権力をもつ側や暴力的な相手からの脅しを恐れての忖度など以ての外。
黒石市の件、市の取り消しを撤回した事にも、批判が在ったのですね。仰る様に、批判する事自体が目的の人にとっては、どういう状況になろうが批判するという事なのでしょう。
「被写体の少女が自殺した事を、市側は最高賞授与の内定を出した後に知った。→御遺族の御考えを確認した所、『授与は止めて欲しい。』と言われた。→従って、内定を取り消した。」、こういう流れ“で在れば”、市側の対応は未だ納得出来るんです。でも、実際問題としては、御遺族は内定を喜んでおられた。となると、市側の度を越した“事勿れ主義”が、今回の問題の背景に在ったと思わざるを得ない。
“事勿れ主義”とかでは無く、様々な状況を勘案した上での決定ならば、市側は安直に判断を変えるべきでは無いけれど、そうじゃ無かったと感じますね。
人の考えは十人十色ですし、どんな考え方をし様が、其れは全くの自由。だけれど、其の考えを他者に力尽くで強いたりするのは論外。今回の場合、結果的には御遺族の思いに応える形になったけれど、近年は異常な迄のクレームが“好ましくない結果”へと結び付いてしまう事も在り、色々考えさせられます。