バージニア州ブラックスバーグに在るバージニア工科大学で発生した銃乱射事件では、現場で自殺した容疑者の男性を含むと死者数は33名に上り、全米犯罪史上最も多くの死者を出した銃撃事件となった。8年前の1999年に発生した「コロンバイン高校銃乱射事件」も衝撃的な事件だったが、それ以降彼の国でこの手の銃撃事件のニュースを見聞するのは何度目だろうか。犠牲となった学生達には、心から哀悼の意を表したい。
改めて銃社会の恐ろしさを痛感させられたが、だからと言ってアメリカに対して「一般人から銃を取り上げさせろ!」と声高に叫ぶつもりも無い。アメリカが銃社会になったのには、彼の国がこれ迄に積み重ねて来た歴史とそれに基づく文化が影響しており、その上で彼の国の人々が銃社会を選択したと思うし、その事を部外者の自分がどうこう言うのはどうかと思うからだ。
嘗ては鯨油を採るだけの為に鯨を捕獲していたアメリカが、あらゆる部位をほぼ余す所無く利用&食する為に捕獲していた我が国対して、「鯨を捕獲して殺すのは残酷だ!」と主張する。鯨にとってはどちらの場合も殺される事には変わり無く、災難で在る事は確かだが、唯、どちらの国が”天然資源”をより有効活用していたかというのは明々白々だろう。第三者に対して被害を生じさせる場合は別にして、そうでなければその国家が築き上げて来た歴史や文化を他国がどうこう言うのは筋違いだし、その歴史や文化の是非は、当事国自らが判断し今後に反映させれば良い事。
アメリカ国民の中には「我が身は自分で守る。」という強固な信念を持っている人も少なく無いのだろうから、それならば「他国民に被害を与えない範囲で御勝手に。」としか言えない。そして自分が思うのは、「我が国を、彼の国の様な銃社会に絶対にしてはいけない!」という事だけだ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/sos.gif)
改めて銃社会の恐ろしさを痛感させられたが、だからと言ってアメリカに対して「一般人から銃を取り上げさせろ!」と声高に叫ぶつもりも無い。アメリカが銃社会になったのには、彼の国がこれ迄に積み重ねて来た歴史とそれに基づく文化が影響しており、その上で彼の国の人々が銃社会を選択したと思うし、その事を部外者の自分がどうこう言うのはどうかと思うからだ。
嘗ては鯨油を採るだけの為に鯨を捕獲していたアメリカが、あらゆる部位をほぼ余す所無く利用&食する為に捕獲していた我が国対して、「鯨を捕獲して殺すのは残酷だ!」と主張する。鯨にとってはどちらの場合も殺される事には変わり無く、災難で在る事は確かだが、唯、どちらの国が”天然資源”をより有効活用していたかというのは明々白々だろう。第三者に対して被害を生じさせる場合は別にして、そうでなければその国家が築き上げて来た歴史や文化を他国がどうこう言うのは筋違いだし、その歴史や文化の是非は、当事国自らが判断し今後に反映させれば良い事。
アメリカ国民の中には「我が身は自分で守る。」という強固な信念を持っている人も少なく無いのだろうから、それならば「他国民に被害を与えない範囲で御勝手に。」としか言えない。そして自分が思うのは、「我が国を、彼の国の様な銃社会に絶対にしてはいけない!」という事だけだ。
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アメリカで銃を購入するには最低限、市民権がないと駄目らしいですね。
犯人の韓国人学生は永住権はあったそうですが、この場合はどうなんでしょ?
それにしても武器は拳銃だけらしく、それで撃った弾丸数は、犠牲者を考えれば三桁は越えるでしょう。
で、長崎では市長が撃たれました。
もはや日本も事実上の銃社会なんです。
皆さんと違い、アタシは普段から防弾チョッキが通常装備ですので、感じ方は異なるかもしれませんがね。
大変ショックを受けています。今日にいたって当初は
犯人は中国人学生と見ていたのが、実は韓国人学生で
、そして大学側も避難勧告が徹底してなかったのでは
ということもわかってきました。事件発生当時、日本
にいたバージニア州知事も早速帰っていったし、韓国
も犯人が同胞だと知りノムヒョン大統領も衝撃を受け
たときいております。また、長崎の市長も残念ながら
今日の未明に息を引き取ったようだし・・・。本当に
日本が銃社会にならないよう、祈ることしかできない
情けない私です。
朝方はアメリカの銃乱射事件、夜になっては長崎市長が凶弾に倒れるという事件と、昨日は銃に関する衝撃的な事件に明け暮れた一日でした。幼少時には薔薇色の未来と信じていた21世紀になっても、こういった非道な事件が相変わらず続いている現状が唯々情け無いし、少なくとも我が国に於いては徹底的に銃の取締りを行なって欲しいと願っています。アメリカ程では無いにしろ、我が国でも”闇の中”で出回っている銃器の数は巷間言われている数倍に当たるだろうとも指摘されており、早急に手を打たないと取り返しが付かない事態になる事でしょう。
政界と暴力団との繋がりをキッパリと絶たせる為にも、我々国民がしっかり監視しなければならないし、何とかの一つ覚えの様に「美しい国」を繰り返す首相ならば、先ずは政治家と暴力団との癒着を徹底的に取り除く努力をす可きでは無いかと。「愛国心」だ何だと国民に強いるよりも先に、先ずは国民の代表たる政治家達が「美しい国」に相応しい”身奇麗さ”で在る可く厳しい環境を作って欲しいものです。
そして長崎の銃撃事件で気になるのは、容疑者の暴力団関係者の担当弁護士なる人物がやたらとメディアに登場して「容疑者が心神耗弱状態に在った。」という趣旨の発言を繰り返している事。刑の軽減を企図しているとしか思えず、強い憤りを覚えます。
彼の国では銃器を入手するのは容易いと良く見聞します。あれだけ広い国土を有している事も在り、警察組織による治安維持体制も農村部では特に手薄になりがちではなかろうかという気もしますので、「自分の身は自分で守る。」という思いが強くなってしまうのも判らなくは無いのですが、その結果この手の銃犯罪が絶え間無く起こってしまうのですから何とも皮肉な事。
そして我が国でもアメリカ程の酷さは無いにせよ、闇社会で流通する銃器の数は年々増加しているとも聞きますし、早急に取締りを強化して貰いたいです。治安が悪化したとはいえ、世界の中では格段と治安が良い部類に入る我が国。それが我々日本人の誇りでも在るのですから。
事実、凶悪犯はアメリカはヨーロッパや日本より少ないそうです。
長崎の事件とバージニアの事件。どちらも大変な悲劇ですが、狂人のおこした犯罪と現役の市長を選挙期間中に利権がらみのテロにしろ政治滝理由にしろ射殺したのと民主主義社会にとってどちらが深刻か冷静に考えてみる必要があるのでは?
http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2007/04/post_402.html#comments
御紹介戴いたサイトを拝見させて戴きました。「その家の人間が銃器を所持しているかもしれないという事で、アメリカでは逆に撃たれる事を恐れて、家の人間が居る間に押し入る強盗は少なくなる。」というのは、心理的な抑止力として在るとは思います。又、「アメリカで銃によって殺害された人の数を挙げるならば、等しく銃が存在する事によって救われた人の数を挙げなければアンエファ。」という考え方も理解は出来ます。唯、未然に防げた件数を挙げるというのは、「銃の所持を禁じた前後での、銃による殺害件数の比較」という指標で表せるとも言えますが、でもこの事での減少数(乃至は増加数)が必ずしも”きっちり”「銃によって守られた人の数で在る」としてしまうのも違う様に思うんです。
そして一番疑問なのが、「アメリカの凶悪犯罪数は、ヨーロッパや日本よりも少ない。」という点。この辺の事情は不勉強で把握していなかった為、検索等でサクッと当たってみたのですが、「アメリカの凶悪犯罪数が減少傾向に在る。」というのは載っているものの、具体的な数値を見出せなかったので何とも言えないのですが、こちらに載っている「銃犯罪の被害者数」(http://www.tv-asahi.co.jp/ss/60/movie/top.html)ですと「アメリカの1万1,127人に対し、ドイツ381人、フランス255人、カナダ165人、イギリス68人、オーストラリア65人、日本39人。」という事になっております。(古いデータしか見付けられなかったのですが、警察庁発表のデータでは平成12年分迄がこちら[http://www.stopgun.org/html/kenju.html]に載っていました。)そして「各国の人口数(Wikipediaの情報に基づく。)÷各国の銃犯罪の被害者数」という形、即ち「何人当たりに1人の割合で銃犯罪被害者が出ているか?」を算出してみますと、「アメリカの26,962人に1人に対して、ドイツ216、337人に1人、フランス236,957人に1人、カナダ197,017人に1人、イギリス886,333人に1人、オーストラリア306,356人に1人、日本3,276、101人に1人。」となり、「銃犯罪の被害者数は人口比の上でも、アメリカがダントツに多い。」という結果になると思うのですが・・・。(他にこんなサイト[http://www.kokugai.com/zakki_gun.html]も在りました。)
又、民主主義社会というのを政治的な側面から捉えた”場合には”、アメリカの銃乱射事件よりも長崎市長の射殺事件の方が民主主義にとってより深刻な事態と言えるかもしれませんが、民主主義そのものの根幹を揺るがすという意味に於いてはどちらがより深刻か?というのは無い気がします。
短時間でサクッと調べた結果なので、データ的にもっと違う物が在るやもしれず、その際は御容赦下さいませ。
アラメイン伯様が紹介して下さったサイトに書かれている様に、「銃器の所有が結果的に強盗しようと思う人間の心理的抑止力に為り得る。」というのは全く否定するものでは無いし、或る程度はそういった面が在るやもしれません。その国の歴史や文化によって、その国民の”一般的な”思考は変わり得るものでしょうが、”死の恐怖”というのは同じ(全く同じとは言いません。確固たる宗教観や信念を持っている場合には、死というものに対しての恐怖感が減じられる可能性も在ると思いますので。)ではないかと思うからです。
唯、上記したデータや”感覚的”なものを踏まえて言うと、やはり銃器は在るよりも無いに越した方が良いのではないかと。記事でも触れました様に、これが我が国の問題で在れば断固として銃は取り締まって欲しいしと願うのですが、アメリカにはアメリカの歴史や文化が在り、其処に身を置いていない以上「違法な銃器を無くせ!」というのは越権行為とも思えますし、それを主張するつもりは毛頭無いというスタンスの自分です。
それとマヌケ様が記されていた様に、意図した形では無い銃器による死亡事故というのも在りますね。これも哀しい話です。
アラメイン伯様へのレスの中で紹介させて貰ったサイト(http://www.kokugai.com/zakki_gun.html)の中に、興味深い文章が在りました。「一昔前、人を殺すには至近距離からナイフの様な物で殺すしかなかった。殺す瞬間、どうしても返り血を浴びたり、ナイフの感触を味あわなければいけなかったので、どうしても人は躊躇し、殺す事が出来ない場合が多かった。しかし、昨今、人を殺すには銃を用いる。至近距離で無く、遠くから唯「撃つ」だけなので在る。返り血を浴びる事も無ければ、罪悪感など感じる事も無い。そう引き金を引くだけに過ぎないのだ。私が思うに、人を殺した時の罪悪感の大きさと、その殺した時の距離は反比例する。距離が遠ければ遠い程、罪悪感等感じはしないと。」(原爆投下した)エノラ・ゲイに搭乗していた米兵の一人が以前、「投下した時には然程罪悪感を覚えなかったが、その後になってどれ程の被害を与えたかを知り恐ろしくなった。」といった趣旨の証言をしていたかと思います。銃器にも同じ面が在るのではないでしょうか。