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歴史とは、勝者が紡ぐ物。では、何故「平家物語」は、“敗者”の名が題されているのか?
「平家物語」が如何にして生まれ、何を託されたか、平清盛最愛の子・知盛の生涯を通じて、其の謎を感動的に描き切る。
平家全盛から滅亡迄、其の最前線で戦い続けた知将が望んだ未来とは。平清盛、木曽義仲、源頼朝、源義経・・・時代を創った綺羅星の如き者達、善きも悪きも其の儘に、其の全て。
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直木賞作家・今村翔吾氏の小説「茜唄」を読了。上・下巻併せて700頁を超える大長編だ。
「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」で始まる「平家物語」は、今は知らないが昔は必ず「古典」の教科書に取り上げられていたし、知らない人が珍しい程の軍記物語だ。自分も全部を読み通した事は無いが、凡その筋は知っている。作者に付いては不明で、元々は「琵琶法師によって謡い継がれて来た。」とも言われている。「茜唄」は、「令和版・平家物語」と言って良い。
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平知盛:平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に“新中納言”と称された。
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平清盛が最も愛した子供とも言われる平知盛が、「茜唄」の主人公。彼の目を通して、「源氏&平家の者達の姿」や「平家滅亡の過程」が描かれている。「平家が源氏に誇れる物が在るとしたら、其れは“身内の仲が良い”という点だ。」なんて言われたりもするが、確かに“身内で殺し合いを繰り広げた源氏”に対し、平家は概して身内の仲が良い。「身内の仲が良過ぎて、庶民に対して目配りが出来なかった。」というマイナス点が在るやも知れないけれど、「茜唄」でも源氏&平家の身内仲の違いが詳しく書かれている。
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時代の勝者が自らの功績を書として編纂する。この国だけでなく、古来大陸でも行われて来たことである。そこでは、善きことは誇張され、悪きことは除かれる。時には事実が曲げられることも、全く無かった空言が記されることすらある。そうして伝えられるものが、この国の「歴史」となっていくのが現実であった。
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「歴史は、勝者によって作り上げられる。」なんて言うが、「勝者は殊更に良く描かれ、敗者は悪し様に描かれる。」という面が歴史に在るのは事実だろう。だから、後世の人々は“史実”を探求し続け、“真の歴史”を炙り出して行く必要が在る。
とは言え、「色んな“顔”を持つのが人間。」で在る以上、見る人によって其の人の見方が異なるというのも在る。或る人にとっては“非常に酷薄な人”で在っても、別の人にとっては“愛情深き人”という事だって在り得るだろう。だから、歴史上の人物の評価は難しいのだが、同時に面白さでも在る。(「茜唄」でも、“小心者で情けない人物”とされる事が多い或る人物の“別の顔”が記されていたりしている。)
「茜唄」では、多くの“謎”が読者に提示されている。「平清盛は何故、源頼朝を殺さなかったのか?」、「上・下巻を通して、『平家物語』を謡う西仏と接していた人物は誰なのか?」、「『平家物語』を書物では無く、“口伝”にした理由は何故なのか?」、「『茜唄』というタイトルの意味合いは?」等々だが、其れ等の訳(今村氏の推測も含む)&正体が明らかになった時、すっと腑に落ちる人が多い事だろう。
読んでいて何度も、胸にグッと来る物が在った。多くの人に読んで貰いたい名作だ。総合評価は、星4.5個とする。
これは京都新聞朝刊に連載されていたものを、完結によって単行本化されたものですね。
連載開始のころには関心が薄く、時々見るぐらいでしたが、終盤に入ったころから読んでいました(苦笑)。
歴史は勝者によって作り上げられるもの。
確かにその面はあると思いますが、単純にそれだけではないのでしょうね。
前政権(前王朝・前幕府)を倒した現政権を称え、功績を書き連ねて残していくのが正史=歴史なら、現政権以前の歴史は暗黒史の連なりになっているはず。
でも現実はそうなっていない。
明治新政府は徳川幕府を否定したが、徳川幕府の負の面だけがことさら強調されて現在に残っているわけではない。
どういう判断、どういう力がそこに働いているのでしょうかね。
権力によって書き残される歴史=大説に対し、民間によって書き残される小説が、その一端を担っているのでしょうか。
「勝者は殊更に良く描かれ、敗者は悪し様に描かれる。」というのは古今東西良く見受けられる事ですが、とは言え、仰る様に「敗者が、100%悪し様に描かれる訳でも無い。」んですよね。
思うに、「敗者の事が、“其の時代を生きた人達”の人口に膾炙されているか否か。」というのも大きいのでほないでしょうか。事実を“捏造”し様としても、人口に膾炙されていると、捏造し切れないという面も在るのではないかと。
「何が事実なのか?」(と言っても、判断する人の立場によって「虚構」と判断された事が、別の人にとっては「事実」と判断されるが、何方も必ずしも間違っていないという事も在りますね。)というのも、歴史を見て行く上での楽しみで在ります。