懐メロ大好き人間なので、BSテレ東の歴史情報番組「武田鉄矢の昭和は輝いていた」【動画】は好きなTV番組の1つ。4日に放送された同番組は「実話を元にした昭和歌謡第3弾」というタイトルで、実話を元にして作られた昭和歌謡を幾つか取り上げていた。興味深いエピソードの数々だったが、其の中から3曲に付いて紹介する。
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① 「街のサンドイッチマン」【動画】
昭和28年に発売された此の歌は、鶴田浩二氏が歌って大ヒットした。芸人の「サンドウィッチマン」では無く、「サンドイッチマン」の悲哀を描いた歌で在る。サンドイッチマンとは「広告宣伝手法の1つで、人の胴の前面と背中の両方に宣伝用の看板を取り付け、街中に佇み、或いはあるいは歩行する人。」を意味する。昭和26年~27年頃が全盛期だった様で、自分はTVドラマ等の中で見た事は在るけれど、実際に街中でサンドイッチマンの姿を見掛けた経験は無い。
で、「街のサンドイッチマン」には実在のモデルが居た。「御洒落な雰囲気のサンドイッチマンが居る。」という事で新聞にも取り上げられた事が在る彼は高橋健二氏といい、何と「連合艦隊司令長官等を歴任した元大日本帝国海軍の軍人・高橋三吉氏の息子。」だと言う。「日本が戦争に負け、高橋三吉氏がA級戦犯として逮捕された煽りを受け、息子の健二値は勤務先を解雇されてしまった。忽ち生活に困窮し、自殺する事も考えた彼が、日銭を稼ぐ為にサンドイッチマンをしなければならなかった悲哀が歌われた作品。」なのだ。
②「さくら貝の歌」【動画】
(此方にも詳しく記されているが)此の歌は、昭和14年に八洲秀章氏によって作曲された物。
大正4年、北海道の農家に生まれた彼の初恋の相手は、同じ小学校出身で4歳年下の横山八重子さんだった。親しく交際はしていたものの、御互いの気持ちを確認出来ない儘、八洲氏は昭和11年、21歳で作曲家を目指して上京。作曲家となった彼は昭和13年、愛の告白を認めた手紙を故郷の八重子に送るが、実は其の時には既に彼女は結核にて18歳で亡くなっていた。翌年の昭和14年、鎌倉の由比ヶ浜で桜貝を目にした八洲氏は、「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」と悲しみの思いを短歌に詠んだ。其れを知った友人で作詞家の土屋花情氏が作詞した物に、八洲氏が作曲したのが「さくら貝の歌」だと言う。
③「夜のプラットホーム」【動画】
昭和22年、二葉あき子さんが歌って大ヒットした此の歌、「元々は昭和14年に淡谷のり子さんが吹き込んだものの、『戦時下の時代情勢にそぐわない。』と検閲に引っ掛かり、同年に発禁処分を受けた。」というのは意外な事実だった。
又、歌詞の内容から「男女の別れ歌」の1つという認識しか無かったのだが、意外な実話が隠されている事を知った。此の歌の作詞家・奥野椰子夫氏は元新聞記者という経歴を有するが、戦時下の東京・新橋駅で実際に目にした光景を作詞したのだと言う。「戦地に出征する兵士達を大勢の人が見送っていたのだが、ふと横を見ると、プラットホームの柱の陰に、出征兵士の妻と思しき1人の女性が佇んでいた。」とか。戦地で戦死する可能性も在る夫を見送らなければならない彼女の不安気な表情が、奥野氏には強く印象に残ったのだろう。単なる「男女の別れ歌」では無く、「今生の別れをも覚悟した男女の歌」という訳だ。
「『海外で実際に目にした光景を歌にした作品。』と思い込んでいた動揺『月の砂漠』【歌】が、実は日本国内で目にした光景を歌にした作品。」で在る事を知り、非常に驚いた物だが、「夜のプラットホーム」も又、そんな意外な実話の在る歌。
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