****************************
家在れども帰り得ず
(家が在っても帰れない。)
涙在れども語り得ず
(涙が出る程哀しいのに、それを人に語る事が出来ない。)
法在れども正しきを得ず
(法律は存在するのに、正義は為されない。)
冤在れども誰にか訴えん
(濡れ衣を着せられても、誰にそれを訴えられようか。)
****************************
清の皇族・愛新覚羅善耆の第14皇女として1907年に北京で生を享け、1914年に大陸浪人・川島浪速の養女となり、その名前を「川島芳子」と改名した一人の女性。彼女は日本で教育を受け、やがて清朝の復辟を目指して関東軍のスパイとなる。“男装の麗人”や”東洋のマタ・ハリ”等と称されるも、「単に自分を利用しているだけ。」と気付き、関東軍とは相容れぬ関係になってしまう。そして日本が第二次大戦に敗れると、「漢奸」として中国国民党軍により逮捕され、1947年に死刑判決を受け、1948年3月25日に北平第一監獄で銃殺刑に処せられる。「日本」と「中国」という2つの故郷の間で翻弄され、そして捨てられた女性と言っても良いだろう。
40歳で銃殺された彼女が、実は1978年迄生存していたという証言が飛び出した。(11月16日付け東京新聞[朝刊]。)吉林省の日刊紙「新文化報」が15日迄に報じた物。同紙によると、証言したのは長春市の女性画家・張さん。彼女の母は残留日本人孤児で、1歳の時に長春に住む男性の家に引き取られた。その男性は2004年に86歳で他界したが、亡くなる直前、張さんに「小さい頃一緒に遊んでくれた“方おばさん”は川島芳子だ。」と打ち明け、芳子が描いたという絵を託したと言う。
男性は戦時中、旧満州国警察局長の日本語通訳を務めており、芳子とも接触が在ったとか。処刑場で芳子を別人に掏り替え、元同僚と3人で長春に匿まったと言う。
張さんは幼少時、“方おばさん”から日本語や日本の歌を教わったが、その中には芳子が作詞した「蒙古の歌」等も。又、男性が死亡した後、自宅壁に隠されていた箱が発見され、“方おばさん”が描いたという日本風の絵画や関東軍関連の資料等の他、銀製の簪やフランス製望遠鏡等当時の中国では入手困難だった物も含まれていたそうだ。
「処刑されたのは別人で、川島芳子はその後も生存していた。」という生存説は、これ迄にも何度か浮上している。5年前にも芳子の娘と自称する女性が登場し、「母は処刑されなかった。」という証言をしていたと記憶している。源義経に関連する“伝説”と似た感じはするが、今回の報道の真偽は果たしてどうなのだろうか?個人的にはこの手の話が結構好きなので、非常に興味の在る所。
尚、冒頭で紹介した詩は、処刑後に芳子の所持品から見付かったメモに記されていた物。こちらの情報によると、死に臨む心境を記した物では無く、彼女が松本高等女学校時代に記した物と言う。どういった思いで記したのかは想像するしか無いのだが、時代に翻弄された彼女を思うと、何とも言えない切なさを感じてしまうのだが・・・。
家在れども帰り得ず
(家が在っても帰れない。)
涙在れども語り得ず
(涙が出る程哀しいのに、それを人に語る事が出来ない。)
法在れども正しきを得ず
(法律は存在するのに、正義は為されない。)
冤在れども誰にか訴えん
(濡れ衣を着せられても、誰にそれを訴えられようか。)
****************************
清の皇族・愛新覚羅善耆の第14皇女として1907年に北京で生を享け、1914年に大陸浪人・川島浪速の養女となり、その名前を「川島芳子」と改名した一人の女性。彼女は日本で教育を受け、やがて清朝の復辟を目指して関東軍のスパイとなる。“男装の麗人”や”東洋のマタ・ハリ”等と称されるも、「単に自分を利用しているだけ。」と気付き、関東軍とは相容れぬ関係になってしまう。そして日本が第二次大戦に敗れると、「漢奸」として中国国民党軍により逮捕され、1947年に死刑判決を受け、1948年3月25日に北平第一監獄で銃殺刑に処せられる。「日本」と「中国」という2つの故郷の間で翻弄され、そして捨てられた女性と言っても良いだろう。
40歳で銃殺された彼女が、実は1978年迄生存していたという証言が飛び出した。(11月16日付け東京新聞[朝刊]。)吉林省の日刊紙「新文化報」が15日迄に報じた物。同紙によると、証言したのは長春市の女性画家・張さん。彼女の母は残留日本人孤児で、1歳の時に長春に住む男性の家に引き取られた。その男性は2004年に86歳で他界したが、亡くなる直前、張さんに「小さい頃一緒に遊んでくれた“方おばさん”は川島芳子だ。」と打ち明け、芳子が描いたという絵を託したと言う。
男性は戦時中、旧満州国警察局長の日本語通訳を務めており、芳子とも接触が在ったとか。処刑場で芳子を別人に掏り替え、元同僚と3人で長春に匿まったと言う。
張さんは幼少時、“方おばさん”から日本語や日本の歌を教わったが、その中には芳子が作詞した「蒙古の歌」等も。又、男性が死亡した後、自宅壁に隠されていた箱が発見され、“方おばさん”が描いたという日本風の絵画や関東軍関連の資料等の他、銀製の簪やフランス製望遠鏡等当時の中国では入手困難だった物も含まれていたそうだ。
「処刑されたのは別人で、川島芳子はその後も生存していた。」という生存説は、これ迄にも何度か浮上している。5年前にも芳子の娘と自称する女性が登場し、「母は処刑されなかった。」という証言をしていたと記憶している。源義経に関連する“伝説”と似た感じはするが、今回の報道の真偽は果たしてどうなのだろうか?個人的にはこの手の話が結構好きなので、非常に興味の在る所。
尚、冒頭で紹介した詩は、処刑後に芳子の所持品から見付かったメモに記されていた物。こちらの情報によると、死に臨む心境を記した物では無く、彼女が松本高等女学校時代に記した物と言う。どういった思いで記したのかは想像するしか無いのだが、時代に翻弄された彼女を思うと、何とも言えない切なさを感じてしまうのだが・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/moon_mov.gif)
日本人ではなくとも、満州族の王女が中国人であるはずが無いのだから、やはり漢奸では無い。
石原、板垣に重んじられて満州建国のために関東軍のスパイとして活躍した女闘士が生き延びていた、と聞くと、信州出身者としましては率直に「よかった」と感じます。ちなみに、私の尊敬する偉人の一人は、「北京の55日」当時、川島浪速が通訳として仕えた信州の英雄、福島安正少将であります。
古くは、源義経。
チンギスハンになったという伝説があります。
豊臣秀頼は、自害する事なく九州に渡ったという逸話がありますね。
これらの殆どは、偉人を愛する人たちの
「無惨な死に方を認めたくない。」
という熱い気持ちからでてきた逸話・・・作り話がほとんどですね。
ただ、今回の記事の場合は、比較的近い時代の話ですし、真実かもしれませんね。
義経は衣川で亡くならず、他の地へ逃げ延びたという所謂「義経不死伝説」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C#.E4.B8.8D.E6.AD.BB.E4.BC.9D.E8.AA.AC)。それに纏る“史跡”は各地に在りますね。「生きていて欲しい。」という民衆の判官贔屓な思いが義経不死伝説を生み出した訳で、義経がチンギス・ハーンになったなんて説には心浮き立つ物が在ります。これは「豊臣秀頼=天草四郎」説と相通じるかと。