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西洋文化溢れる華やかな東京の翻訳出版社に勤める片岡直哉は将来、妻・久子と一人息子・譲と共にアメリカへ移住するのが夢だった。しかし、第二次世界大戦開戦により譲は疎開させられ、直哉は久子と東京に残る事に。理不尽な言論統制下で、何時かは人間本来の生の美しさを描いたヘンリー・ミラーの「セクサス」を翻訳出版するという夢を抱いて。
そんな彼に、赤紙が届く。陸海軍の精鋭部隊が残留している北海道北部の占守島に米軍上陸の危機が噂される中、大本営の作戦本部は、敗戦を予見していた。其処で米軍との和平交渉の通訳要員として、秘密裏に直哉を占守島に運ぶ作戦が立てられたのだ。粉飾の為、2人の「特業(戦争に役立ちそうな特技。)」要員も召集された。地元・盛岡の貧しい人々の為に働いて来た志高き医学生の菊池忠彦、熱河作戦と北支戦線の軍神と崇められた車両運転要員の“鬼熊”こと富永熊男で在る。
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浅田次郎氏の「終わらざる夏」は、1945年8月18日~21日に千島列島北端の占守島で起こったソ連軍と日本軍の戦いを取り上げた作品。ポツダム宣言を受諾し、8月15日には玉音放送にて敗戦を明らかにした日本に突如戦いを仕掛けて来たソ連。日本の敗戦が確実視される中で漁夫の利を得ようと、締結していた日ソ中立条約を8月8日に一方的に破棄した事といい、自分がソ連(現在はロシア。)という国に対して今一つ信頼が置けないのは、此の時の遣り口が在るからだ。「真岡郵便電信局事件」は知っていたけれど、「占守島の戦い」に付いては知識が薄かったので、此の作品を読む事にしたのだが・・・。
「例えどんな優れた文章を書いたとしても、現実にあの場に身を置いた方々の証言には勝てないと思ったので、生き残った方々から当時の様子等を伺う事は敢えてしなかった。」といった趣旨の発言を浅田氏はされていたが、其れは其れで悪くないと思う。充分に資料に当たった痕跡は感じられるし、何よりも作家がどうイマジネーションを膨らまして行くかが重要と考えているので。唯、個人的に残念だったのは、肝心の「占守島の戦い」関する記述が非常に少なかった事。9百頁を超える長編なのに、触れているのは百頁も無かったのではなかろうか。「『戦争とは何か?』と考えた時に、戦闘のドンパチや両軍の装備の描写等よりも、其処に集められた一人一人がどんな生活をして来たのかが大切だと思ったのです。」と浅田氏は其の理由を語っているが、自分としては「其れ迄の生活の描写が冗長に過ぎ、ストーリー全体が間延びしてしまった。」という感が強いのだが。
「登場人物をもう少し絞り込んでも良かったのでは?」という思いも在る。「様々な人々の視点を通してストーリーが展開して行くスタイル」は決して悪くはないし、時には其れが読者に強く訴え掛けるケースも在るけれど、此の作品の場合には悪く働いた気がする。視点が次々に変わる事で、船酔いの様な感じがした。特に、最後の方で唐突に現れたソ連への視点は不要だったと思う。ストーリーを余計に追い辛くしただけではなかったろうか。
強く印象に残った記述は、次の通り。
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・ 「クラウゼヴィッツが言うまでもなく、戦争は国家間の究極の外交手段なのだから、一方が亡びるまでの戦争などもはや戦争ではない。外交手段としての度は過ぎているということだ。」。
・ 戦争とは、命と死との、ありうべからざる親和だった。ただ生きるか死ぬかではなく、本来は死と対峙しなければならぬ生が、あろうことか握手を交わしてしまう異常な事態が戦争というものだった。
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評価が高い作品の様だが、自分としてはガッカリな内容だった。総合評価は星2.5個。
西洋文化溢れる華やかな東京の翻訳出版社に勤める片岡直哉は将来、妻・久子と一人息子・譲と共にアメリカへ移住するのが夢だった。しかし、第二次世界大戦開戦により譲は疎開させられ、直哉は久子と東京に残る事に。理不尽な言論統制下で、何時かは人間本来の生の美しさを描いたヘンリー・ミラーの「セクサス」を翻訳出版するという夢を抱いて。
そんな彼に、赤紙が届く。陸海軍の精鋭部隊が残留している北海道北部の占守島に米軍上陸の危機が噂される中、大本営の作戦本部は、敗戦を予見していた。其処で米軍との和平交渉の通訳要員として、秘密裏に直哉を占守島に運ぶ作戦が立てられたのだ。粉飾の為、2人の「特業(戦争に役立ちそうな特技。)」要員も召集された。地元・盛岡の貧しい人々の為に働いて来た志高き医学生の菊池忠彦、熱河作戦と北支戦線の軍神と崇められた車両運転要員の“鬼熊”こと富永熊男で在る。
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浅田次郎氏の「終わらざる夏」は、1945年8月18日~21日に千島列島北端の占守島で起こったソ連軍と日本軍の戦いを取り上げた作品。ポツダム宣言を受諾し、8月15日には玉音放送にて敗戦を明らかにした日本に突如戦いを仕掛けて来たソ連。日本の敗戦が確実視される中で漁夫の利を得ようと、締結していた日ソ中立条約を8月8日に一方的に破棄した事といい、自分がソ連(現在はロシア。)という国に対して今一つ信頼が置けないのは、此の時の遣り口が在るからだ。「真岡郵便電信局事件」は知っていたけれど、「占守島の戦い」に付いては知識が薄かったので、此の作品を読む事にしたのだが・・・。
「例えどんな優れた文章を書いたとしても、現実にあの場に身を置いた方々の証言には勝てないと思ったので、生き残った方々から当時の様子等を伺う事は敢えてしなかった。」といった趣旨の発言を浅田氏はされていたが、其れは其れで悪くないと思う。充分に資料に当たった痕跡は感じられるし、何よりも作家がどうイマジネーションを膨らまして行くかが重要と考えているので。唯、個人的に残念だったのは、肝心の「占守島の戦い」関する記述が非常に少なかった事。9百頁を超える長編なのに、触れているのは百頁も無かったのではなかろうか。「『戦争とは何か?』と考えた時に、戦闘のドンパチや両軍の装備の描写等よりも、其処に集められた一人一人がどんな生活をして来たのかが大切だと思ったのです。」と浅田氏は其の理由を語っているが、自分としては「其れ迄の生活の描写が冗長に過ぎ、ストーリー全体が間延びしてしまった。」という感が強いのだが。
「登場人物をもう少し絞り込んでも良かったのでは?」という思いも在る。「様々な人々の視点を通してストーリーが展開して行くスタイル」は決して悪くはないし、時には其れが読者に強く訴え掛けるケースも在るけれど、此の作品の場合には悪く働いた気がする。視点が次々に変わる事で、船酔いの様な感じがした。特に、最後の方で唐突に現れたソ連への視点は不要だったと思う。ストーリーを余計に追い辛くしただけではなかったろうか。
強く印象に残った記述は、次の通り。
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・ 「クラウゼヴィッツが言うまでもなく、戦争は国家間の究極の外交手段なのだから、一方が亡びるまでの戦争などもはや戦争ではない。外交手段としての度は過ぎているということだ。」。
・ 戦争とは、命と死との、ありうべからざる親和だった。ただ生きるか死ぬかではなく、本来は死と対峙しなければならぬ生が、あろうことか握手を交わしてしまう異常な事態が戦争というものだった。
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評価が高い作品の様だが、自分としてはガッカリな内容だった。総合評価は星2.5個。
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