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「無かった事には、ならない。」。
「福島」が「フクシマ」になった彼の日、原発に人生を奪われた。だが、何としてでも生き抜いてやる。
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「ジョーカー・ゲーム・シリーズ」で知られる作家・柳広司氏。そんな彼が、「東日本大震災で発生した『福島第一原子力発電所事故』で、大きく人生を狂わされた人々の姿。」を描いた小説「象は忘れない」。
ミステリー好きな人間からすると、此のタイトルから思い浮かぶのは、“ミステリーの女王”と呼ばれたアガサ・クリスティ女史の作品「象は忘れない」だ。イギリスの諺に“An elephant never forgets.”というのが在り、此れは「象は(恨みを)忘れない。(そして、必ず報復する。)」という意味。
アガサ版では「(名探偵の)エルキュール・ポアロが、象の様に記憶力の良い人々を訪れ、過去の真相を探る。」 という内容だが、柳版では「過去を忘れない象に対し、絶対に忘れてはいけない事柄でも忘れてしまう人間。」を描いている。
「羮に懲りて膾を吹く」というよりも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という風潮が、近年は特に強い日本。未曽有の大事故で在る「福島第一原子力発電所事故」も、忘却の方向に向かっている人が少なく無い様に感じる。
又、「“御上”の言葉を、無思考に受け入れる。」というのも、日本人の多くが持つ特徴だろう。「原発は、絶対に安全。」とか「原子炉建屋は、ジェット機が突っ込んでも壊れない。」といった政治家達の発言を“絶対的な常識”として信じ込んで来た人々。然し、そんな常識が全くの“嘘”だった事が、福島第一原子力発電所事故によって明らかとなった訳だ。
「東日本大震災は天災だが、福島第一原子力発電所事故は人災で在り、其の辺はきちんと分けて考えなければいけない。」といった趣旨の事を、「象は忘れない」の中で柳氏は記しているが、全く同感。事故発生時の政権が責任を問われるのは当然だが、其れ迄に「絶対安全。」と“無根拠に”言い続けて来た過去の政権も、同様に責任を問われるべきだと思う。
「被災者として“差別”されて来た女性が、ヘイト・スピーチという差別活動に加わる事で喜びを感じる様になる話の『卒塔婆小町』。」や「辛い思いをし続けている被災者達が、政治の無策さによって引き裂かれて行く話の『俊寛』。」等、複雑な思いになる作品がずらっと並ぶ。目を逸らしたいけれど、そういう現実(又は似た様な現実)が在るで在ろう事を思うと、目を逸らしてはいけないのだろう。
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一つの都市を一瞬で廃墟に変えたヒロシマ型原爆に使われた濃縮ウランはわずか八百グラム。八百キロでも八十キロでもない。たったの八百グラムだ。制御不能となったフクシマ第一原発一号機から四号機には、それぞれトン単位の核燃料が格納されていた。一方で、現地のコントロール・センターには、そのとき“サムライ”と呼ばれるわずか五十人ばかりの決死隊が残っているだけだった。それだけの人数でいったいなにができる?暴走機関車を素手で止めるようなものだ。なにもできやしないさ。彼らは、実際には事故を起こした原発がどうなっていくのか、運を天に任せて状況を見守っていただけだ。 (「善知鳥」より)
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同じ過ちを繰り返さない為にも、忘れてはならない事柄が在る。又、「絶対に在り得ない。」なんて事は、其れこそ「絶対に在り得ない。」事を認識しないといけない。
総合評価は星3.5個。
人災と言われて久しいですが、あの事故とは、電力会社としての、独占企業としての競争のない事から来る、弛緩でもあって、原発の安全性を度外視するのも、現実味のない太陽光中心のエネルギー戦略も、企業の独占状態を払しょくするものではない、と思います。
タイトルが鮮やかですが、憎しみを報復する象、とは、責任の所在がはっきりせず、お役所仕事によって危難を増すのであれば、人が恐ろしいものに変じる、という、警鐘でもあると思います。
「『自分達が住んでいる場所の原発が在るからこそ、他の地域では安定した電力供給を享受出来ている。』という自負めいた思いを持っていたけれど、大震災にて原発が崩壊&ストップし、自分達は避難等苦しい思いをしているにも拘わらず、他の地域では其れ迄の日常と何等変わらない日々を送っている事に大きな衝撃を受ける被災者達。」というのが、此の作品では描かれています。「原発は絶対に安全。だから、原発による利益を享受している此の土地では、間違っても原発を批判する事なんか出来なかったし、する気も無かったという被災者も。
被災者だけに限らず、多くの人々は、与えられた情報を鵜呑みにするのでは無く、常に疑って掛かり、自分の頭で検証するという癖を付けないと、何か事が起こったら、そういう癖が無い人々は、自分自身を責めて暮らす事になってしまう。
「彼の事故とは、電力会社としての、独占企業としての競争の無い事から来る弛緩。」、言えていると思います。唯、だからと言って闇雲に“競争原理”を取り入れれば良いという事でも無いのは、小泉改革による弊害(高速バス業界への他業種参入により、大きな事故が発生する素地を作ってしまった事等。)からも言えますね。其のバランスが大事。
原発の管理体制はどうしたものが、ベストミックスであるか、という、まじめな疑問が沸き上がりますね。研究や運営のルーティンには、競争がないと、現場の意識は保たれないでしょうし、競争を排除する、という事は、現状維持であって、現場に何か知ら変化や、政策の提唱もない、と、弛緩するのは自然な気もするのですよ。
他者には「レッテル貼りをするな!」と執拗に言い乍ら、自分自身が好んでレッテル貼りをしている首相が居る国だからか、近年は無根拠且つ安直にレッテル貼りをする風潮が強くなっている気がします。私利私欲を充足する為だけに、特定の活動をする連中は嫌いだけれど、真摯に原発反対を唱えただけで、やれ“プロ市民”だ、やれ“御花畑”だと揶揄するのは、結局の所、“自縄自縛な社会”を構築するだけだと思っています。
原発に賛成だろうが反対だろうが、其処に「論」が在れば、最低限のリスペクトする。其れこそが“成熟した社会”ではないかと。今の日本は、右も左も幼稚な人間が少なく無いのが残念。