戦国時代、戦で勝利した武将が敗れた武将の妻子を奪い、自身の“妻”にするというのは、間々在った様だが・・・。
週刊朝日(10月11日号)の巻頭に、「さらわれた花嫁」という特集記事が載っていた。中央アジアに位置するキルギスでは、「女性を連れ去り、強引に結婚する風習。」、即ち「誘拐結婚」が残っていると言う。
全く知らなかった話なので、早速調べてみた所、確かにそういう風習が残っている様だ。此の風習は「アラ・カチュー」と呼ばれ、「男性が求婚する女性を誘拐し、処女を喪失させる、若しくは女性が処女を喪失したと周囲に認識させる事で、事実婚としてしまう。」と。
元記事から、抜粋してみる。
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突然、男の家に連れて来られた女性は、「もう、止めて!」と泣き続けた。何十人もの年老いた女達が彼女を取り囲み、其の男と結婚する様に説得する。耳元で大声で怒鳴ったり、宥めたり、時にキスをして優しくしたり。
誘拐結婚の風習が残るキルギスの村では、こんな光景は珍しく無い。取材したフォト・ジャーナリストの林典子さん(29歳)が、花嫁の誘拐の実態をこう話す。
「先ず男性が、結婚したい女性を、車等で自分の家へと連れ去って来る。其の後は、男性の親族で在る年配の女性達が結婚を承諾させる為、何時間でも説得する。中には、嘗て誘拐されて結婚した人も居ます。」。
誘拐結婚は法律で禁止されているが、女性が自殺でもしない限り、男性が罰せられる事は殆ど無い。又、一度誘拐されると、結婚を拒む事は難しい。
「此処では、女性は一度でも男性の家に入ると、純潔が失われたと見做される為、自宅に戻っても家族に恥を掻かせると思ってしまう女性は多い。年配の人は敬うべき存在。年寄りに説得され、諦めるケースは跡を絶ちません。」。
其の後の人生は様々だ。幸せになる人、離婚する人、暴力に悩む人、そして自殺する人・・・。
「誘拐した男性は、話してみると、礼儀正しく、優しい人も多い。」。
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国民の約4分の3がイスラム教徒というキルギスでは、「結婚相手が処女で在る。」という事を重視するのだとか。だから、誘拐された女性が結婚を拒否し、そして自宅に戻ったとしても、「一旦、男性の家に入った女性は、処女を喪失した。」と見做され、周囲から好奇の目で見られたり、差別的な扱いを受けたりする。其れを恐れて、泣く泣く「誘拐結婚」を承諾するという実態が。
アラ・カチューが行われる理由に関しては、此方に詳細が記されているが、「女性の社会的地位の低さ」というのは、非常に大きい気がする。
「内戦状態に在るアフリカの国では、“敵”を襲った際、女子を攫って“性的な対象”にしているケースが在る。」というのは知っていたが、キルギスの「誘拐結婚」というのは知らなかった。「キルギス国内の結婚の内、68~75%はアラ・カチュー。」という指摘も在るのだとか。
まぁそれに近い事は日本も含め沢山の国に有るんでしょうがアメリカや日本がキルギスに援助金を出してると言う事はキルギスは一応民主的な国(アメリカの言うことを聞く国?)と認められてるんでしょうね
キルギスと似た話しは中国にも有るそうです人里離れた奥地の村は女性を誘拐するブローカーに金を払い見ず知らずの女性を誘拐させ嫁さんにするらしいです
盲山と言うタイトルで映画にもなってますが中国以外の国での上映では地元警察は拉致された女性の存在を見てみぬ振りをしてますが中国国内での上映では中国政府の圧力でその部分はカットされ物語の最後は女性の父親と警察が女性を助けてめでたしめでたしで終わるそうです(さすが体面を重んじる中国らしい指導ですね)
国家が「正義の行為」として行っていた事が、実は「己が利益を得る為」という面が専らだったというのを、長じて知る様になりました。此れはアメリカだけでは無いけれど、大国程そういったエゴが強い感じがしますね。
「盲山」という映画、初めて知りました。ネットで検索してみましたが、興味深い内容ですね。(中国公開時の国家による“編集”には、「彼の国らしいな。」と苦笑するしか在りませんでした。)
「誘拐」という形では無いにせよ、「日本人の女性が、性風俗産業で強制的に働かされるケースが増加している。」という事で、「日本は人身取引大国。」という指摘も在ります。こういうのは、逸早く改善して行って欲しいもの。
差別的で在ったり、寛容性が全く無かったりという思考は、どうにも受け容れ難い物が在ります。他者に対して差別的で在ったり不寛容で在ったりというのは、結局の所、其の行為によって自身を高い位置に置きたいという思いが在るのではないかなあという気がします。
「一般的に高い評価がされる立場を自ら捨て去り、弱者の為に身を粉にして働く。」という人が居ますけれど、心底尊敬してしまう。「凄いなあ。」と思うけれど、では「自分が同じ事を出来るか?」と問われれば、とても出来ないし。