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① 移民の大量流入により、極度の排他主義が横行する。
② 困窮生活に大きな不満を抱える国民の“ガス抜き”をすべく仮想敵を作り上げて、其れを徹底的に排除する。
③ 多くの国民が「株価は永遠に上がって行く。」と盲信して株の売買に明け暮れたり、自分が持っている金銭以上の投機を行ったりした挙句、未曾有の経済破綻に見舞われる。
④ 地下深くに閉じ込められて救命を待つ者を、外部でマスメディアが連日の如く報じる。中には扇情的&露悪的な報道も目立ち、其れに踊らされた少なからずの見物人が現場を訪れたり、そういった人々をターゲットにした屋台やパフォーマーも登場。救命を待つ者に対して、「救出されたら、私と結婚して欲しい。」等の熱狂的な手紙が届いたりも。
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上記した4つの事柄を目にして「今現在、何処かの国で起こっている事だ。」とか、「少し前に、何処かの国で起こった事だ。」と思われた方も多い事だろう。
チャンネル銀河では11月から、「映像の世紀」というドキュメンタリー番組が再放送されている。1995年から1996年2月に掛けて「NHKスペシャル」で放送された此の番組は「世界30ヶ国以上のアーカイブから収集した貴重な映像や回想録、証言等を駆使して『20世紀』という時代を立体的に描いた名作。」で、当時の自分は全11集を夢中になって見ていた。初回放送終了から14年経った今、改めて此の番組を再放送の形で見ている訳だが、「人間って、同じ過ちを繰り返す生き物なのだなあ。」というのを当時以上に強く感じたりもする。
冒頭に記した4つの事柄、実は先日放送された「映像の世紀第3集 それはマンハッタンから始まった 噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした」で取り上げられていた内容なのだ。第一次世界大戦終結から1920年代の終わり迄を描いているので、今から約90年近く前の世界の姿なのだが、現在や少し前の世界(当然、日本も含む。)を思わせる事柄が結構在るのが興味深い。因みに①は「第一次世界大戦で国土を戦禍に晒されなかった事で大量の移民が流入し、其の事でクー・クラックス・クラン(KKK)等の極度な排他主義が横行したアメリカ。」、②は「反ユダヤ主義を掲げてユダヤ人の殺戮を行った、ドイツのナチス。」、③は「1920年代のアメリカ。」、そして④は先達ての「『コピアポ鉱山落盤事故』救出劇を巡る過剰な報道合戦。」では無く「1925年にケンタッキー州の洞窟奥深くに閉じ込められた男性を巡る報道合戦。」(此方に詳細が記されている。)に付いてで在る。最後に書いたケンタッキー州の一件では、男性が閉じ込められてから2週間後に絶命する迄のみならず、彼の遺体が回収される迄延々と報道合戦が続いたとも言われている。
試験の為だけにしか「歴史」を学んでいない人も少なくないと思うが、此れは非常に残念な事だと思う。「過去の話を勉強したって、未来には何の役にも立たないではないか。」という主張をする人も居るが、其れは大きな間違い。過去に捉われ過ぎるのはどうかと思うが、古今東西の歴史を具に検証すれば「人間というのは一定間隔で同じ過ちを繰り返している。」事や、「過ちをする前には、概してどういった事が起きているか。」という事等、「人間がより良い未来を構築する為の知恵」を得られる。
こう書くと「でも少なからずの人間が過去の歴史を学んだ筈なのに、人間は其れでも同じ過ちを繰り返しているではないか。」という反論が出るのも理解している。其れも又事実。哀しいかな、人間は過ちを繰り返してしまう生き物でも在るから。でも少しの多くの人間が歴史から学んだ過去の過ちを心に刻んでいれば、同じ過ちを仕出かす時期を、少しでも後送りは出来る筈だ。又、仮に同じ過ちを仕出かしてしまったとしても、過去の過ちと其れによる影響を知っていれば、災いを少しでも減じられる可能性だって在るのではないか?
妙な自虐史観や、妙に捩じ曲がった愛国心を植え付けるのが目的の「歴史教育の強化」には反対だが、「より良き未来を構築する為、多面的な思考を涵養する目的での歴史教育強化。」は賛成。自国の歴史だけでは無く、異国の歴史も含めたクロスオーバーな歴史教育を各国が行えば、余りに独善的な思考を減じさせられるかもしれないし。「愛国心」や「正義」を過度に持ち出し、其れに基づく行動が全て正しいとされた結果がどうなったかは、過去の歴史を見れば良く判る筈だ。我々は「歴史」を学ぶと共に、「歴史」から何かを学び取らなければいけないと思う。
① 移民の大量流入により、極度の排他主義が横行する。
② 困窮生活に大きな不満を抱える国民の“ガス抜き”をすべく仮想敵を作り上げて、其れを徹底的に排除する。
③ 多くの国民が「株価は永遠に上がって行く。」と盲信して株の売買に明け暮れたり、自分が持っている金銭以上の投機を行ったりした挙句、未曾有の経済破綻に見舞われる。
④ 地下深くに閉じ込められて救命を待つ者を、外部でマスメディアが連日の如く報じる。中には扇情的&露悪的な報道も目立ち、其れに踊らされた少なからずの見物人が現場を訪れたり、そういった人々をターゲットにした屋台やパフォーマーも登場。救命を待つ者に対して、「救出されたら、私と結婚して欲しい。」等の熱狂的な手紙が届いたりも。
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上記した4つの事柄を目にして「今現在、何処かの国で起こっている事だ。」とか、「少し前に、何処かの国で起こった事だ。」と思われた方も多い事だろう。
チャンネル銀河では11月から、「映像の世紀」というドキュメンタリー番組が再放送されている。1995年から1996年2月に掛けて「NHKスペシャル」で放送された此の番組は「世界30ヶ国以上のアーカイブから収集した貴重な映像や回想録、証言等を駆使して『20世紀』という時代を立体的に描いた名作。」で、当時の自分は全11集を夢中になって見ていた。初回放送終了から14年経った今、改めて此の番組を再放送の形で見ている訳だが、「人間って、同じ過ちを繰り返す生き物なのだなあ。」というのを当時以上に強く感じたりもする。
冒頭に記した4つの事柄、実は先日放送された「映像の世紀第3集 それはマンハッタンから始まった 噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした」で取り上げられていた内容なのだ。第一次世界大戦終結から1920年代の終わり迄を描いているので、今から約90年近く前の世界の姿なのだが、現在や少し前の世界(当然、日本も含む。)を思わせる事柄が結構在るのが興味深い。因みに①は「第一次世界大戦で国土を戦禍に晒されなかった事で大量の移民が流入し、其の事でクー・クラックス・クラン(KKK)等の極度な排他主義が横行したアメリカ。」、②は「反ユダヤ主義を掲げてユダヤ人の殺戮を行った、ドイツのナチス。」、③は「1920年代のアメリカ。」、そして④は先達ての「『コピアポ鉱山落盤事故』救出劇を巡る過剰な報道合戦。」では無く「1925年にケンタッキー州の洞窟奥深くに閉じ込められた男性を巡る報道合戦。」(此方に詳細が記されている。)に付いてで在る。最後に書いたケンタッキー州の一件では、男性が閉じ込められてから2週間後に絶命する迄のみならず、彼の遺体が回収される迄延々と報道合戦が続いたとも言われている。
試験の為だけにしか「歴史」を学んでいない人も少なくないと思うが、此れは非常に残念な事だと思う。「過去の話を勉強したって、未来には何の役にも立たないではないか。」という主張をする人も居るが、其れは大きな間違い。過去に捉われ過ぎるのはどうかと思うが、古今東西の歴史を具に検証すれば「人間というのは一定間隔で同じ過ちを繰り返している。」事や、「過ちをする前には、概してどういった事が起きているか。」という事等、「人間がより良い未来を構築する為の知恵」を得られる。
こう書くと「でも少なからずの人間が過去の歴史を学んだ筈なのに、人間は其れでも同じ過ちを繰り返しているではないか。」という反論が出るのも理解している。其れも又事実。哀しいかな、人間は過ちを繰り返してしまう生き物でも在るから。でも少しの多くの人間が歴史から学んだ過去の過ちを心に刻んでいれば、同じ過ちを仕出かす時期を、少しでも後送りは出来る筈だ。又、仮に同じ過ちを仕出かしてしまったとしても、過去の過ちと其れによる影響を知っていれば、災いを少しでも減じられる可能性だって在るのではないか?
妙な自虐史観や、妙に捩じ曲がった愛国心を植え付けるのが目的の「歴史教育の強化」には反対だが、「より良き未来を構築する為、多面的な思考を涵養する目的での歴史教育強化。」は賛成。自国の歴史だけでは無く、異国の歴史も含めたクロスオーバーな歴史教育を各国が行えば、余りに独善的な思考を減じさせられるかもしれないし。「愛国心」や「正義」を過度に持ち出し、其れに基づく行動が全て正しいとされた結果がどうなったかは、過去の歴史を見れば良く判る筈だ。我々は「歴史」を学ぶと共に、「歴史」から何かを学び取らなければいけないと思う。

映像の世紀の3集は、EDにWTCのシルエットが映っていて、なんとも苦々しい思いで胸が一杯になります。小川真司さんの塩辛い声でフィッツジェラルドを読み上げるのが、例えようもなく美しいんですわこれがまた。
私の場合、幸い祖国を卑下するような教育を受けることはなかったのですが(別に右寄りな教育ではなく、戦争についても教わりました)、他の学校や地域では、過去の戦争の経緯から日本は極悪な国で、愛国心を持つのがまるで恥ずかしい事であるかのような教育を施され、その反動で大人になって極端に右に針が振れる人が少なからず居る事実を知り、残念に思っています。
愛国心なんてのは、まともな国なら誰の心の底にもひっそりと存在していて、普遍的なものであって、政治の御輿にするべきものでは無いです。そのへんの祠の神様か何かのように、それとなく愛することで十分です。もちろん私は日本が大好きです。
ときに、sengoku官房長官は、その職の理想像として後藤田正晴氏の名を挙げておられたはず。尖閣沖の中国漁船による衝突事故について、果たして後藤田氏なら差配したのか、大変気になります。長期間政権交代もなく頑丈な足場で差配する人と、未だ日も浅く不安定な政権で差配する人を比較するのは不公平かもしれません。ただ、あれほど多くの事件に見舞われながらも長期政権を維持してきた事には後藤田氏の力も大きかったかと思いますので。
恐らく、後藤田氏であれば、国益を第一に考えるはず。ビデオを即刻全面公開して中国漁船を追い詰めるか、逆にビデオを完璧に封じて、国民は事件があった事にすら気づかないかのどちらかのような気がします。
そして38氏は結構理知的且つ強かだと思います。メモ全文を見るかぎりでは競技ディベートで争点になりそうな部分はほぼ全て挙げてましたから。何となく、起訴された場合も含めて計算してたと思いますね。
「芸」の欠片も見受けられない様な自称芸能人達(芸NO人)が、唯只管馬鹿騒ぎだけしている様な番組が、地上波では金太郎飴の如く垂れ流されている地上波は、本当に御寒い限り。必然的に此処数年は、個性的な番組が多いCSチャンネルを見る機会が多くなりました。
自分の場合も「過度な自虐史観」や「過度な愛国心」を押し付ける様な歴史教育をされなかったのは幸いですが、地域によってはそういった所も在った様で、其れは非常に不幸な事と思います。
クロ様が書かれておられる様に、余程変わった人間では無い限り、自国に対して愛情は多かれ少なかれ持っており、「愛国」なんて上から強制されるべき物では無い筈。自分も日本のシステムに不満を感じる所は少なくないけれど(皇室、否、厳密に言えば「皇室を過度に神聖化する様な報道姿勢」が好きではなかったりと。)、其れでも日本という国が大好きだし。何処ぞの元首相の様に、「『自身の望む愛国の姿勢が無ければ、全て売国奴だ!』的な思考。」にはとても付いていけない。人の顔が一人一人異なる様に、「愛国の形」も其れ其れ異なって当然と思うから。
首相を務めている頃は余り好きじゃなかったけれど、今になって振り返ると中曽根元首相というのは非常にバランス感覚の在る政治家の一人だったと思います。「タカ派」として有名だったけれど、「自国の国力以上を望むべきでは無い。」といった主張等、所謂「極右」とは立ち位置が違ったし。そして女房役を務めていた後藤田正晴氏(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/63be9b86f0dbd8ff37c3bd946479a209)との二人三脚振りも絶妙でした。
仙谷由人氏に関しては、彼が政治家になる迄の「反骨精神」を感じさせる逸話に結構シンパシーを感じておりましたので、官房長官でどういった手腕を見せるのか期待している部分は在りました。「もしかしたら、後藤田官房長官の様に化けるかも。」という思いも在ったのですが、残念乍ら此れ迄は幻滅させられる事ばかり。「情報公開」が民主党の旗印だった筈なのに、政府が関与している事柄に関しては其の逆を行く事ばかり。権力を振り翳す相手に立ち向かっていた筈の彼が、権力の中枢に入った事で、権力を振り翳しに掛かっているのだとしたら、此れは笑止千万と言わざるを得ない。後藤田氏が官房長官だったら、もっと強か且つスマートに“着地点”を見出していたでしょうね。
件の保安官、個人的には“アドヴァイザー”が居る様な感じを受けます。最初に彼がマスメディア向けに出したコメントを見ると、文章にやや論旨の矛盾を感じる面が何ヶ所か在ったのだけれど、二度目では其れが無くなっている様に見受けられたので。彼が持つ「純粋な正義心」から行った行為なのかもしれないけれど、二・二六事件を始めとして純粋な正義心の怖さを感じてしまう部分も在ります。
僕がネットを始めた約10年前、僕は大阪でのオリンピック開催に反対していました。
当時の長野県知事、田中康夫氏の
「オリンピックはGNPが、'60年代の日本と同レベルの発展途上国で開催すべき。」
という主張に共感していましたし、何よりも許せなかったのは、「ハッピー・マンデー」という三連休を増やすための祝日法改正で、東京五輪の開会式に因んだ、「体育の日」の日付を変更した事でした。「アジア初の五輪開催」という過去を蔑ろにするような国に、もう五輪を開催する資格はない、と思っていたのです。
「過去から何を学ぶか。」
という以前に、
「過去に何があったか。」
という事にあまりにも無頓着な人が多過ぎるのではないかと思います。
度重なる公約違反でやや色褪せてしまった感の在る「マニフェスト」ですが、政権交代前のマニフェスト全盛期に、街角で若い子達に「マニフェストに読みましたか?読んでどう思いましたか?」という質問をしていました。読んだという子の中には、「難しくて、全く内容が判らなかった。」と答える者がチラホラ。断言してしまうのはどうかと思うけれど、自分の中では「本当はマニフェスト自体を読んでいないんだろうな。」と感じたもの。と言うのも、何処の政党も非常に噛み砕いた内容で、イラストを駆使する等、実に判り易い内容だったから。読解力に差が在るとは言え、あれだけ判り易い内容を「全く内容が判らない。」とするのは考え辛く、「読まずに『難しい内容。』と忌避しているだけでは?」と思った次第。
「無知で在る事」よりも、「無知で在る事を自覚出来ない」方が遥かに罪深い。此れは自戒を込めての事ですが、「過去」を知ろうとしない事は、或る意味「罪」と言っても良いのではないでしょうか。