ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

ゲームに没頭する子供達

2010年10月06日 | 教育関連
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乙武洋匡さん、ブログで『ゲームとの付き合い方』を語る」(9月22日、ITmedia

五体不満足」等の著者として知られ、現在は教諭・スポーツライターとして活躍中の乙武洋匡さんが、自身の公式サイトにて「ゲームとの付き合い方」と題した文章を公開し、話題となっています。

発端は、最近は、子供達が公園で集まって無言でゲームをしている。という誰かのツイートでした。確かにゲームは楽しい。しかし楽しいからこそ「付き合い方」が大切になって来るのではないか-。ブログの中で、乙武さんはTwitter上での議論を受けて、ゲームとの正しい「付き合い方」に付いて次の様に述べています。

先ず第一に、乙武さんが不安視するのがゲームが他の機会を奪ってしまう事。ゲームは楽しいが、其の結果、子供達の生活が「ゲーム一色」、「ゲーム優先」に為ってしまっては意味が無い。教員時代、乙武さんが朝の会で「昨日一番楽しかった事」を子供達に問うと、殆どの男子が昨日遊んだゲームの話をするばかりで、「こんな本が面白かった。」、「御母さんとはこんな話をした。」といったスピーチは殆ど聞けなかったそうです。勉強やスポーツ、読書、音楽等、子供達にはもっと様々な物に触れて欲しいが、「ゲームに嵌まると、どうしても其れ一辺倒に為ってしまう。」と乙武さんは指摘します。

第二に、親がテレビやゲームに『子守り』を任せてしまい、親子間でコミュニケーションを図る障壁と為っていないか?という点。世の中には親子でゲームを楽しんでいる家庭も在るものの、「残念乍ら、現状では其の様な家庭ばかりでは無い様です。」と乙武さん。「子供と関わる時間的・精神的な余裕が無いに、『ゲームを遣っていれば静かだから。』と、子供達が長時間に亘りゲームに没頭する事を黙認している親も多くます。」と、ゲームに任せきりで子供と関わろうとしない「親の問題」を指摘しています。子供がゲーム一辺倒になってしまう背景には、親の責任も大いに在るという訳ですね。

誤解が無い様付け加えておきますが、乙武さん自身は決して「ゲーム其の物」を否定している訳では在りません。「僕も子供の頃は、時間を忘れて画面に向かった。」と語っている通り、乙武さんも「ドラゴンクエストⅢ」や「信長の野望」、「三國志」等のゲームで遊んだ「ゲーム世代」。しかし、だからこそ余計に「公園で子供達が無言でゲームに興じている。」様な現状に一石を投じたくなったのかもしれません。皆さんも此れに、家庭での「ゲームとの付き合い方」に付いて改めて考えてみては如何でしょうか。
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以前の記事でも触れたが、昭和30年代~40年代に掛けて漫画受難の時代に在ったと言う。「漫画を読むと馬鹿になる。」、「漫画は悪書だ。」というコンセンサスが多くの大人達の間に出来上がっており、選挙運動で空き地に漫画を山積みして焼いた候補者も居たりしたと言うのだから、正に焚書坑儒」の世界だ。自分の幼少期は此れ程酷さは無かったけれど、其れでもしたり顔で「漫画を読むと馬鹿になる。」と言い放つ親は少なからず居た。漫画が大好きで読み漁っていた自分なんぞは、そういった親達からすると許し難い存在だったろう。

自分の場合、漫画から触発されて、様々な事柄に関心を持つ様に。手塚治虫氏の作品から「歴史」や「生物」、「哲学」、「芸術」等々の書物を読む様になり、自身の思考を醸成する元となった。「三国志」の知識を積極的に蓄える様になったのは、横山光輝氏の「三国志」を読んだのが切っ掛け。漫画で関心を持った事柄に付いて調べ、其れを“コア”として他の知識も深めて行く。自己成長の“の一つ”が、自分の場合は漫画だった。

以前に書いたと思うが、「目の前に相手が居るというのに、携帯電話のメールで互いに遣り取りしている親子。」をファミレスで見掛けた事が在る。終始無言でカチャカチャとボタンを押してメールを作成&送受信を繰り返し、ニヤッと笑ったりしているのは正直不気味だった。「子供達が公園で集まって無言でゲームをしている光景」というのも、此れに近い物が在るのかもしれない。

自分も「ドラゴンクエスト・シリーズ」にはディープに嵌まる等、ゲームは非常に好きな人間だ。目が疲れる等の理由から社会人になって以降は余りしなくなったけれど、其れでもゲーム自体は嫌いじゃない。だから子供達がゲームに嵌まってしまうのは理解出来るし、乙武氏と同様にゲーム自体を否定する気は毛頭無い。「ゲームだけが全て。」みたいな状況になってしまうのは、老若男女を問わずどうかと思う。ゲームを通じてでも良いが、様々な方向に関心を持ち、そして知識を貪欲に吸収して行ったり、機械等を媒介させない形“でも”他者と積極的にコミュニケーションを図れる様にする必要が在るだろう。本人の努力も然る事乍ら、幼い子供の場合には親を含めた大人達が、どうアシストして上げられるかが重要なのではないか。

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Unknown (クマゼミ)
2010-10-06 12:48:43
ひたすら製造し販売し収益をあげることにしか関心のないメーカーにいちばん大きな責任、企業責任というのが問われるべき。 ゲーム中毒、ゲーム漬けを世に生み出した企業の責任は大きい。 どこかのだれかの子供の将来への影響よりも自分の所属する組織の利益が優先され正しくない行いでも利益のためには正しいとなってしまう。 こんなもん作ったら子供達がどうなるかある程度は想像するに容易い。 子供達から大切な時間を奪ったという理由でアメリカなら訴訟になってもおかしくない。
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>クマゼミ様 (giants-55)
2010-10-06 15:37:15
書き込み有難う御座いました。

眉を顰めてしまいたくなる様な“えげつない内容”のゲームが平然と売られていたりしますし、「売れれば何でも在り。」的な企業の姿勢は確かにどうかと思っています。唯、“あくまでも個人的な考え”なのですが、ゲーム中毒という部分では未成年者、特に幼い子供に付いての責任は、企業と言うよりも親が負う所が大きい様に感じています。アルバイト等をして自ら買ったというのは別にしても、ゲームを買い与えるのは親(乃至は祖父母)なので。ゲームよりも面白い物が幾らでも在るという事を、具体的に指し示すのも我々大人の責任の様に感じます。
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責任の所在を言うなら (悠々遊)
2010-10-06 20:52:50
子供から遊び場を奪った大人全員にあるのでは?
道路で遊んではいけません。駐車場ではボール遊びはいけません。危ないので川で遊んではいけません・・・。学校の運動場も放課後は気軽に自由に出入りができなくなってきているようです。
むかし、今の大人が子供だった頃は、友達たちと全身を使った遊び・ゲームに興じ、時間の経つのを忘れて遅く帰り親にしかられた経験があるはず。
ゲームに嵌るのが問題ではなく、人間同士のコミュニケーションの無いゲームに嵌るのが問題ではないでしょうか。そして、そんなゲームしかできない環境にしてしまったのが問題なのでは?
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ついでに言うなら (悠々遊)
2010-10-06 21:04:14
たびたびすみません。
子供同士が直接関わりあうゲーム・遊びから、相手との距離感などの社会性を学び、人間として成長するわけで、そういうゲームは絶対必要なわけですが、今ここで話題にされている「ゲーム」は、そこのところが決定的に欠けてやしませんか?
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>悠々遊様 (giants-55)
2010-10-07 02:28:42
書き込み有難う御座いました。今回はこちらにレスを付けさせて貰います。

自分が子供だった時分、野原や川で泥だらけになって遊ぶ毎日でした。子供の塾通いというのが一般化しつつ在る時代では在ったけれど、其れでも未だそういう環境が残っていた。そんな自分からすると、「外で思いっきり遊ぶ環境が奪われてしまった今の子供達は、可哀想だなあ。」と感じる訳ですが、もしかしたら自分よりも遥かに上の世代の人達は、自身の子供時代を踏まえて、「彼等(giants-55)の世代は可哀想だなあ。」と思っていたのかもしれず、結局は「自分の生きて来た時代に比べると・・・。」という観点が最優先されてしまうというのは在るかもしれませんね。

外での遊び場を奪ってしまったのも大人なら、変質者として子供が外で遊び難い環境を作ってしまったのも大人と言え、ゲームを開発する人の中には「大人としての贖罪として、代替品たるゲームを開発している。」という思いが在る人“も”ゼロとは言い切れないし。

悠々遊様の書き込みで最も同感なのは、友達同士で遊べるゲームは別にして、一人だけでプレイするゲームというのは、他者との距離感等を掴む訓練の機会を奪ってしまう“可能性が在る”という点。此れは非常に気になります。
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