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文章の原理

2015-12-31 | 日本語文章論
文章は言葉を発して意味のまとまりをもって語の連続にあらわしたものである。文、章ともにあやである。文はことばのあやであり、章は言葉のまとまった区切りによる、あやである。あやは表現されたもの、ことばのまとまりである。文が思想を表す、語は意味を持つ最小の単位、それでは文章は何を表すか。文身、文彩、文章と、その色合いを言う。いろどりを持った言葉である。それが言葉として、文章となる。*礼記‐哀公問「有成事、然後治其雕鏤文章黼黻以嗣」 *論語‐公冶長「夫子之文章、可得而聞也」 そして、日本国語大辞典は、>一つの主題でまとまった思想を表現するために、文(センテンス)を連ねたもの。主として、話しことばの談話に対して書状など書きことばについていい、また、詩歌に対して音数、韻などの比較的自由なものだけをさすことがある。 *文華秀麗集〔818〕序「自厥以来、文章間出、未逾四祀、巻盈百余」 と解説する。


文法は句法であったとみる、あるいは語法であったとみる、それは漢文による概念である。すると文法と呼ぶようになるものはそれまでにあったか、なかったか。それまでとは時代が明治になるまでのことである。文法を翻訳語であるとする考えに従えば、また事実はそうでもあるのだが、文法は日本語の概念にはなかったと考えてよい。しかし、まったくなかったわけではない。それが文章法と呼ぶべきものであるが、句法の上位概念になる文章法であるから、文章についての捉え方となる。何を言おうとするかといえば、文に規定された文の要素を、今では主語述語を核とする成分で、文を説明するが、そのような概念を持たなかったのが文章であるから、文章法は何によって文法となるか。

日本語文章論は日本語の文および文章の文法論議を行う。文法は広くその範囲をとって文の法則と作文法を内容とする。文章の芸術であること、創作による文章作品の批判、評論をおこなうもの、またその文体を議論するものはその専門領域を個別に確立する。日本語文章論は日本語文論、日本語形態文法ともかかわあいを持つので、句論、語論と連続する議論である。日本語文章は現代語文章をその分析対象とするが、日本語文章の歴史は、日本語を近代と古代の研究に画期を見て分類すれば、古代語の文章と対比しての、現代語文章、近代語文章と仮説することができる。しかしそれはまた、漢文訓読による日本語文章と和歌による文章のいわば大和語文章とに分けて、それを止揚することで成立した近代語文章と、それに連続しながらも対比することのできる現代の日本語文章と分けることになる。

文章論 文章単位

文法論に文の単位がある。伝統文法では語、文、文章を単位とし、語には語論、文には文論があるので、文章には文章論がある。語論に単語、文論に単位文、文章論に文章単位をそれぞれ捉える。単語に倣えば、単文、単文章となるが、それはそのままに一語、一文、一文章のことである。語と単語において一語との区別はとくにないが、文と単文においては一文であって複文、重文という捉え方があるので単位文としての設定がある。それに単文章と一文章をおけば、文章単位の規定を行うことで、複数の文章が一文章にあるかどうかが議論となる。そこにはいままでの用語をもって文章の段落を見ることになるが、それをまた文段ということができる。それで、文章と文段の捉え方をまずは議論する。段落は一文をもって構成する場合がある。段落を複数の文の集合とすると、その一文がどういう文であるかを分析しなければならない。文章は文の複数の集合体とすることがある。そうすると一文章が文段であるということはできる。段落を文章の単位とするか、段落における文とは何か、あるいは段落そのものがなんであるかを規定しなければならない。文章単位は文の複数をもち、文段を構成する。文章は段落となるが、一文で段落を構成することができるので、文章そのものが段落であるとは限らない。しかし文章が文段を構成するとみると、その文段は文章段と呼ぶべきであるかもしれない。一文で段落、一文章で文段、一文段には複数の文と言うようにして、文章段は文章であるとする。

日本語文章は文法単位の文が複数、連鎖したものである。複数は2文を超えて結びつく。連鎖は意味による。書き手に文章に意図する内容があり、それを文法により連結する。そこには連文の考え方、とらえ方がある。文による連文は一つの文章単位となる。連文の連文を意味内容とすると文段をどう構成するか、その議論によって文連鎖の捉え方が変わる。文と文と連文となって、それが文章となるとすると、その構造を文法的にとらえるのは語論の範囲から超えることがあるかどうかである。言わんとすることは修飾語の要素また成分は文を超えることはなく、あるとすれば、それは修飾文を想定することになる。接続語をもっての文連鎖の分析も同様のことがある。しかし、修飾文章、接続文章を文法的に見出すならばその議論の範囲ではない。日本語の語には表語文字によって、いわば表文文字ともなりうる機能を熟語に見ることがあるので、いわゆる一語による文また文章を議論するようなことになる。文章における文はその要素また成分の分析において、単位文でありながら複文として働くので、文法単位の文とは何か、そして複文とは何かを、まず設定する。この複文の用語はすでにある単文に対する複文であって、その単文が単位としての文であるとは何かを議論すると、日本の文は単文と複文のほかにもう一つ重文とされるものを、文にあって捉えなおさなければならなくなる。単文を主語述語の分析にするか、単文を述語を核にする文構成とみるか、いわゆる主語の成分を日本語で主成分とするか、主語を補語とするカテゴリーにするか、つまり主格の認定をするかどうかで、これまでの文法論議は対立する。主格補語は主語ではない。それは補語であるから、文の単位に大きくかかわって、日本語文を主語述語という核がないものにしてしまっている。日本語文章の要素には主語述語をとらえて、複文を分析し、重文であることを議論しなければならない。議論のポイントには主語という成分が文の成立に係わっているということである。それが必須要素である文を見る、その文法と異なって、文章論をもって、主語の要素は文章にあるとすることが日本語文章論の議論である。

日本語文章論の単位を語、文、文章とすると、語となるものはどのように設定されるか。語はそれ以上分けられない意味のまとまりととらえてきたのは、通用する概念であるが、文法論の形態論において、形態をとる語基、接辞の分析をすることから、語は最小の意味単位ではないことが議論されている。形態論に係わる文章論において語は同様に伝統文法でいう単位が応用される。それは文節である。国語文法の自立語プラス付属語をもってする単位はすぐれてまとまりをもって語である。文節の用語は文法において文の分析単位としたので、それを改めて語という単位で見直すことになる。文節は品詞に分けると助詞助動詞が膠着すると理解されるが、形式の自立性からすれば助詞助動詞は助辞、接辞、活用語尾にも相当する。語をまた詞プラス辞の構成で見ることはわかりよい単位である。日本語は意味のまとまりに語としての機能を表出することで詞辞をもち、文章論の語となりうる。

語は詞と辞で構成する。文は主語と述語で構成する。文章は文で構成する。文章には文が関係しあう構成である。その関係は文段にまとめられる。文段は書き手によって段落をもって示される。形式的には文章を示す段落表示である。文章には、したがって、段落冒頭のスペースと文章末尾の改行があり、その空白は重要である。ときとして、改行を施さずに、その形式をスラッシュ /、また逆三角マーク ▼で示す場合がある。そのほか、文章の形式に冒頭をスペースにしない、あるいは、末尾の改行を施して、次の段落と行を開けて示す場合がある。これはコンピュータ処理される文書作成で用いられることがある。段落に対して、文段の形式とするのは、書き手の段落と同じように行われるが、文段は読み手の解釈による場合があるので、読み手が文章とする範囲をあらかじめ、その文章において取り決めることになる。文章の単位は文字列を読みやすくする。なお、文を用いて、その区切り符号はそのまま用いる。ときにダッシュ ―、三点 …などを文章内で用いる。句読点と引用符が原則である。

文章の文法の単位として、その要素には文の成分を見ることになる。文法の捉え方は単位に繰り返し現れる。語の関係と語の構成が文の要素として関係し構成する。文の関係と文の構成が文章の要素として現れる。文の成分が文章の要素になるのは、文をとらえて文章を分析するからである。文章には主語がある。この要素を文においては必須とするものではない。文に主語がある、その主語は文の成立に必須となる要素であるが、文成立に主語がその文単位に現れるかどうかは、日本語の場合、主語が文に必須でなかったとして、実際の日本語の現象に多くとも文章に必須の成分となる。

文章の要素には主語と述語を必須成分とする。文に主語があらわされていなくても、その主語を文章によって、読み手、聞き手は知り得ることになる。その意味内容では文に主語があらわされないということがあれば、それは表現者が主語となり得る話し言葉である。しかし述語の文にはその関係構成をする語があるので、そこに文の要素として主語が想定でき、それを文章から得ていることがわかる。文章の要素には文法の文の要素をあげることができるが、行われている文法議論には、補語述語による文構造の捉え方があって、その補語の概念が拡大しすぎていて日本語文法を説明することがない。文の基本概念が主語をもたない、それは主格補語となるようで、その語を主語とするのか、補語とする説明では、文の概念が明確でなくなっているようである。

日本語文章に主語がある、日本語文法に主語がある、それは単位体に共有するものであって、小単位体の主語が大単位体の主語であることがあり、また小単位体に充てて大単位体に主語がある、ということである。文に主語があればそれがそのまま文章の主語となりうる。ただし文章は文が2文以上集まってできる単位体であるから、文章の主語をその文単位ごとに認めれば、文章の単位に文による主語が複数認められる。また文章に主語があれば、それがいくつかの文に関係構成する主語となることがある。いまその主語を文章の主語を主題主語とし、文の主語を主格主語とすることができるし、文に主題主語が現れ、文章の主題主語となることがあるし、また、文に主格主語があってそれがまた文章の主語となる。文に主語が2つあればそれは二重主語の文となり、文には主文としての1つの主語を認めるのがわかりよい。文に主題主語が現れ、さらにその文にまた主格主語が現れるような文は、文の単位から言えば単文ではなくなる。複文と考えてよい。象は鼻が長い 彼は知識が増える など、その例文には、文の構造の分析が必要となる。それぞれ、象は鼻が長いことよ 彼は知識が増えることよ となる文であって、象は鼻が長いのである どうして 、 彼は知識が増えるのである なぜか 、 となる文章が、この文の前後に想定されて、複文としての単位文には主題主語と主格主語とを備えた文である。

日本語文章論は文章の単位に文法分析を行う。その単位にある文は文節により構成される。文における文節は、文章における最小の単位となる。それは、文節が語であるととらえることを、伝統文法は議論してきたことを受け継ぐ。しかし一方で、伝統文法は自立語と付属語という類別で、語に等しく単位を認めてきたのであるが、それは日本語文法の語の認定に議論を難しくした。その文節を構成する語は、ひとつの語であって、いわば、自立詞と付属辞によって構成されるものである。語そのものを詞とすることが、議論の整理になる。文節は自立詞と付属辞をもって詞となりうる。その詞を語の単位で見ることは、語の意味内容による。

日本語文章に文の単位をとらえ、文には文節を捉えようとするのは、文節による文法機能性にある。日本語は文法機能を助辞によってとらえることができる。その助辞を含めた文節は品詞分類の詞となり文法論の語となる。文章の単位をとらえると、語において文となることはない。いわゆる一語文は文章の意味を拡大解釈して設定されたものであったが、それを文章とする議論はもちろんのこと、文とするのは論理矛盾があり、語は語であり、文は文である。とリあげられて、落ちる! と、発話をしたものを言語の場面、伝達性、言語素材から解釈を施すのは、文章についての情報を求めたものに過ぎないので、それだけで、一語による文とはしないほうがいい。あ、落ちる。何が。棚からカバンが。となるのは、文章によってであるが、その情報性は文によって補われるものであるところ、これは文節で現われている。

文節は品詞を表す単位であった。それは文を区切ったときの自然な空白を作る。日本語を書き記すと文節ごとにスペースができる部分となるのは、話の部分であるからである。連文節は句を作る。句は、語と語とが関係して構成する。慣用句となるのは2語またはそれ以上の語が結びつくと、新たな意味を持つものがあり、話や文章において定型の句として用いられることがある。 慣用句はまた諺となって、特定の意味内容を持つようになると、一つの表現法として用いられる。文章における句は文としての要素になり、文章は句と文とでできる。ここで句に対する節があるが、主節従属節など、文を単位としたときに、文の成立の構成要素となる。


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