源氏物語評釈は花宴の巻までである。萩原広道はここで評釈をとどめた。
>さはれ、よの物識人にとひはかりたることにしもあらず、ただおろかなる心ひとつにおもひかまへてものしつるなればかならずひがことはおほからんかし。それが中にも、さばかりつくりぬしの心ふかう物せられたる文の詞どもを、さしいでてさだしこころみ、またむげなるさとび言を、さながらにもくはへてうつしときたるなどは、いとをこがましく、 かへりては道ふみたがふるまどはしぐさともなりて、なつかしき色をさへかいけちなんかなど、つみさりどころなくおぼゆれど、ただとくこころえまほしくするをうな・わらはべどものしるべばかりにと、 くはだてつるなれば、 見ん人さるかたにおもひゆるしてよかし。嘉永七年正月三日 萩原広道
花宴冒頭
如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。
花宴末尾
「心いる方ならませば弓張の
月なき空に迷はましやは」
と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
萩原広道 はぎわら-ひろみち
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1815-1864* 江戸時代後期の国学者。
文化12年2月19日生まれ。備前岡山藩士。平賀元義(もとよし),大国隆正(たかまさ)にまなぶ。弘化(こうか)2年浪人となり,大坂にすむ。本居宣長(もとおり-のりなが)に私淑。代表作に「源氏物語評釈」。文久3年12月3日死去。49歳。本姓は藤原。通称は鹿蔵,鹿左衛門。号は葭沼,蒜園など。著作はほかに「小夜しぐれ」「てにをは係辞弁」など。
日日本歴史人物事典の解説
萩原広道
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没年:文久3.12.3(1864.1.11)
生年:文化12.2.19(1815.3.29)
江戸後期の国学者。初姓藤原。幼名就蔵,のち小平太,浜雄。通称鹿蔵,鹿左衛門。葭沼,韮園,蒜園,鹿鳴草舎,出石居などと号した。備前上道郡網ケ浜(岡山市)に生まれる。父藤原栄三郎台得は岡山藩士。幼時より利発だったが,実母をはじめ家族が次々没し,父の病弱もあって家庭的には恵まれなかった。父の死後家格を下げられ,藩士としても待遇は悪く,弘化2(1845)年には藩を退き大坂に出る。以後は大坂の地で不安定な生活を余儀なくされ,貧困からの逃避のため大酒におぼれ,晩年は中風にかかるなど,荒廃した日々を送った。広道は10歳代に早くも平賀元義に和歌の指導を受け,20歳代で『百首異見摘評』をまとめて香川景樹批判の立論を行うなど,早熟の才を発揮した。大坂では諸書の板下書きで収入を得ながら多くの国学者,歌人と交流を持ち,独自の国学を樹立するに至る。特に国学書,歌学書の企画,出版に関与すること多く,編集者としての能力を備えてもいた。文才は戯文『あしの葉わけ』や読本の執筆にも向けられた。『源氏物語評釈』の刊行は,部分注釈とはいえ広道の全業績を代表するに足る。<参考文献>森川彰「萩原広道の自叙伝」(『混沌』8号),山崎勝昭「萩原広道略年譜攷」(『国文論叢』17号),同「萩原広道の和歌」(『国文論叢』18号)
(久保田啓一)
世界大百科事典内の萩原広道の言及
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【係り結び】より
…鎌倉時代の《手爾波大概抄(てにはたいがいしよう)》や連歌師に注意されていたが,江戸時代に本居宣長が古歌に例を求めてその法則性を立証し,《詞玉緒(ことばのたまのお)》を著した。宣長は〈の〉〈何〉も係りの辞と認めたが,萩原広道が《手爾乎波係辞弁(てにをはかかりことばのべん)》でその誤りを正した。〈ぞ〉〈なむ〉〈や〉〈か〉の文末が連体終止となるのは,それらの助辞は本来,文末ではたらくものであったのだが,それを倒置して,係りの位置に置いたので,初めの文の連体形がそのまま末尾に残ったのである。…
【源氏物語】より
…江戸時代に入ると,国学の勃興とともにいわゆる〈新注〉の時代となり,契沖の《源注拾遺》や賀茂真淵の《源氏物語新釈》がいずれも文献学的実証を志向し,ついで本居宣長の《源氏物語玉の小櫛》は,その総論に,物語の本質は〈もののあはれ〉すなわち純粋抒情にありとする画期的な論を立てて,中世の功利主義的物語観を脱却した。しかし宣長以後は幕藩体制下,儒教倫理による《源氏物語》誨淫(かいいん)説の横行によって,その研究もふるわず,わずかに萩原広道の《源氏物語評釈》の精密な読解が注目されるにすぎない。
[鑑賞・享受史と影響]
読者の鑑賞享受はいうまでもなく作品成立とともに始まるわけで,日夜部屋にとじこもって耽読したという《更級日記》の作者が好例である。…
※「萩原広道」について言及している用語解説の一部を掲載しています
>さはれ、よの物識人にとひはかりたることにしもあらず、ただおろかなる心ひとつにおもひかまへてものしつるなればかならずひがことはおほからんかし。それが中にも、さばかりつくりぬしの心ふかう物せられたる文の詞どもを、さしいでてさだしこころみ、またむげなるさとび言を、さながらにもくはへてうつしときたるなどは、いとをこがましく、 かへりては道ふみたがふるまどはしぐさともなりて、なつかしき色をさへかいけちなんかなど、つみさりどころなくおぼゆれど、ただとくこころえまほしくするをうな・わらはべどものしるべばかりにと、 くはだてつるなれば、 見ん人さるかたにおもひゆるしてよかし。嘉永七年正月三日 萩原広道
花宴冒頭
如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。
花宴末尾
「心いる方ならませば弓張の
月なき空に迷はましやは」
と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
萩原広道 はぎわら-ひろみち
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1815-1864* 江戸時代後期の国学者。
文化12年2月19日生まれ。備前岡山藩士。平賀元義(もとよし),大国隆正(たかまさ)にまなぶ。弘化(こうか)2年浪人となり,大坂にすむ。本居宣長(もとおり-のりなが)に私淑。代表作に「源氏物語評釈」。文久3年12月3日死去。49歳。本姓は藤原。通称は鹿蔵,鹿左衛門。号は葭沼,蒜園など。著作はほかに「小夜しぐれ」「てにをは係辞弁」など。
日日本歴史人物事典の解説
萩原広道
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没年:文久3.12.3(1864.1.11)
生年:文化12.2.19(1815.3.29)
江戸後期の国学者。初姓藤原。幼名就蔵,のち小平太,浜雄。通称鹿蔵,鹿左衛門。葭沼,韮園,蒜園,鹿鳴草舎,出石居などと号した。備前上道郡網ケ浜(岡山市)に生まれる。父藤原栄三郎台得は岡山藩士。幼時より利発だったが,実母をはじめ家族が次々没し,父の病弱もあって家庭的には恵まれなかった。父の死後家格を下げられ,藩士としても待遇は悪く,弘化2(1845)年には藩を退き大坂に出る。以後は大坂の地で不安定な生活を余儀なくされ,貧困からの逃避のため大酒におぼれ,晩年は中風にかかるなど,荒廃した日々を送った。広道は10歳代に早くも平賀元義に和歌の指導を受け,20歳代で『百首異見摘評』をまとめて香川景樹批判の立論を行うなど,早熟の才を発揮した。大坂では諸書の板下書きで収入を得ながら多くの国学者,歌人と交流を持ち,独自の国学を樹立するに至る。特に国学書,歌学書の企画,出版に関与すること多く,編集者としての能力を備えてもいた。文才は戯文『あしの葉わけ』や読本の執筆にも向けられた。『源氏物語評釈』の刊行は,部分注釈とはいえ広道の全業績を代表するに足る。<参考文献>森川彰「萩原広道の自叙伝」(『混沌』8号),山崎勝昭「萩原広道略年譜攷」(『国文論叢』17号),同「萩原広道の和歌」(『国文論叢』18号)
(久保田啓一)
世界大百科事典内の萩原広道の言及
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【係り結び】より
…鎌倉時代の《手爾波大概抄(てにはたいがいしよう)》や連歌師に注意されていたが,江戸時代に本居宣長が古歌に例を求めてその法則性を立証し,《詞玉緒(ことばのたまのお)》を著した。宣長は〈の〉〈何〉も係りの辞と認めたが,萩原広道が《手爾乎波係辞弁(てにをはかかりことばのべん)》でその誤りを正した。〈ぞ〉〈なむ〉〈や〉〈か〉の文末が連体終止となるのは,それらの助辞は本来,文末ではたらくものであったのだが,それを倒置して,係りの位置に置いたので,初めの文の連体形がそのまま末尾に残ったのである。…
【源氏物語】より
…江戸時代に入ると,国学の勃興とともにいわゆる〈新注〉の時代となり,契沖の《源注拾遺》や賀茂真淵の《源氏物語新釈》がいずれも文献学的実証を志向し,ついで本居宣長の《源氏物語玉の小櫛》は,その総論に,物語の本質は〈もののあはれ〉すなわち純粋抒情にありとする画期的な論を立てて,中世の功利主義的物語観を脱却した。しかし宣長以後は幕藩体制下,儒教倫理による《源氏物語》誨淫(かいいん)説の横行によって,その研究もふるわず,わずかに萩原広道の《源氏物語評釈》の精密な読解が注目されるにすぎない。
[鑑賞・享受史と影響]
読者の鑑賞享受はいうまでもなく作品成立とともに始まるわけで,日夜部屋にとじこもって耽読したという《更級日記》の作者が好例である。…
※「萩原広道」について言及している用語解説の一部を掲載しています