源氏物語を愛の物語とする、愛の葛藤を描き上げたと、わたしは書いた。そしてそれが読者に許されない愛であったとして、源氏の愛した女性とのかかわりを考える。平安時代の男女は、現在でいう、婚姻関係をどう持ったか。世に言う足入れ婚の、通い婚であった。それは風習としてのことであるが、婚姻は配偶関係の締結のほか配偶関係の状態をも含めた概念としても説明しうるので、いまから考えれば、その婚姻を分類して複婚制 Polygamy、一夫多妻制 Polygynyであったとする。妻妾制度をもってする見方は、さかのぼって後宮の取り決めにある。貴族はそれを範とするところがあったろう。源氏の出生がそうであったように、それは更衣を母として持つ。源氏には女性を思慕する愛があったのを、作者は母の思いとするものを、母性本能から得たのである。それを主人公に投影した。それをまた、正妻に求めたが、得られないままに、理想とする女性を得ようとする。そこに起こったできごとが、源氏物語のテーマである。理想の女性は、熱病にあって加持祈祷をする北山の寺で垣間見をする、という筋立ては、その女性との愛をどのような形で示そうとするか。おおきな、なんぞなんぞ、なぞである
>光源氏が愛した女性は、最初の正妻であった葵の上(左大臣の娘)をはじめとして、六条の御息所(前皇太子未亡人)・空蝉(伊予介の後妻)・軒端荻(伊予介前妻の娘)・夕顔(義兄頭中将の愛人)・藤壺(義母)・紫の上(藤壺の姪)・末摘花(故常陸宮の娘)・源典侍(老女官)・朧月夜(兄朱雀帝の尚侍)・花散里(桐壺帝麗景殿の女御の妹)・五節の君(大宰大弐の娘)・明石の御方(明石入道の娘)・女三の宮(朱雀帝第三皇女)らがおり、この他にも侍女の中務の君・中納言の君らも源氏から愛されています。
後宮
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律令の規定によるもの
皇后
妃(ひ/きさき)…2名以内、4品以上の内親王
夫人(ぶにん/おおとじ)…3名以内、3位以上(公卿)の娘
嬪(ひん/みめ)…4名以内、5位以上(貴族または豪族)の娘
平安時代以後に生じた呼称
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中宮(ちゅうぐう)…本来は皇后の別称。後に複数の皇后が立てられた際は、2番目以後の者を指すことが多かった。また、上皇が退位後に迎えた皇后に贈られる事もあった。
女御(にょうご)…本来は嬪の別称であったが、後に皇后・中宮に次ぐ地位とされ、これらの地位に昇る予定の女性でもまず女御になるのを慣例とした。
更衣(こうい)…本来は「便殿」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して女御に次ぐ地位の配偶者に改められた。女官時代の慣例で定員は12名とされた。
御息所(みやすんどころ)…本来は「御息所」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。後に転じて天皇の寵愛を受けた女官や、皇太子・親王の配偶者のことも指すようになった。
御匣殿(みくしげどの)…本来は「御匣殿」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。その最上位のものは「別当」と称し、後に女御に昇る予定の女性がまず御匣殿別当に就く事もあった。
中国の皇后位
>後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキー
皇后
>延喜23年(923年)、醍醐天皇が藤原穏子を皇后に冊立したとき、皇后宮職ではなく中宮職が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このとき初めて、皇后の呼称とした「中宮」が用いられることになった。
本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇が藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇(既に退位して太上天皇)の皇后(中宮)として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には中宮職から皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに長保2年(1000年)、藤原彰子が皇后とされるに及んで1人の天皇が同時に2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。
http://www.ne.jp/asahi/dicisetnones6/666salvavenia/index.html
解剖 六条源氏物語
http://www.ne.jp/asahi/dicisetnones6/666salvavenia/subtext1.html
源氏物語の謎.
>
ストーリー上の謎
①若紫の巻で、藤壺女御が源氏との過去の逢瀬をほのめかしているにもかかわらず、その部分がないことが問題視されてきた。「宮もあさましかりしを思し出づるだに」とあるのに、そのとんでもないエピソードが描かれていないのである。きっと藤壺を主人公とした「かかやく日の宮」とでも呼ぶべき巻があったに違いない、もしくは、それは不敬故に、あるいは品位の問題から、敢えて書かれなかったとする見方、などなど議論を呼ぶ「謎」の代表格である。
私は、この答えを、「書かれている」としたい。今更ながらの指摘だが、「帚木」雨夜の品定めの源氏の居眠り、「空蝉」の女の鼻が低くて目と目が離れていると源氏が難ずる点、そして、「夕顔」のあきらめ含みの十五夜、この三カ所の読解からそう結論づけた次第である。
>光源氏が愛した女性は、最初の正妻であった葵の上(左大臣の娘)をはじめとして、六条の御息所(前皇太子未亡人)・空蝉(伊予介の後妻)・軒端荻(伊予介前妻の娘)・夕顔(義兄頭中将の愛人)・藤壺(義母)・紫の上(藤壺の姪)・末摘花(故常陸宮の娘)・源典侍(老女官)・朧月夜(兄朱雀帝の尚侍)・花散里(桐壺帝麗景殿の女御の妹)・五節の君(大宰大弐の娘)・明石の御方(明石入道の娘)・女三の宮(朱雀帝第三皇女)らがおり、この他にも侍女の中務の君・中納言の君らも源氏から愛されています。
後宮
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律令の規定によるもの
皇后
妃(ひ/きさき)…2名以内、4品以上の内親王
夫人(ぶにん/おおとじ)…3名以内、3位以上(公卿)の娘
嬪(ひん/みめ)…4名以内、5位以上(貴族または豪族)の娘
平安時代以後に生じた呼称
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中宮(ちゅうぐう)…本来は皇后の別称。後に複数の皇后が立てられた際は、2番目以後の者を指すことが多かった。また、上皇が退位後に迎えた皇后に贈られる事もあった。
女御(にょうご)…本来は嬪の別称であったが、後に皇后・中宮に次ぐ地位とされ、これらの地位に昇る予定の女性でもまず女御になるのを慣例とした。
更衣(こうい)…本来は「便殿」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して女御に次ぐ地位の配偶者に改められた。女官時代の慣例で定員は12名とされた。
御息所(みやすんどころ)…本来は「御息所」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。後に転じて天皇の寵愛を受けた女官や、皇太子・親王の配偶者のことも指すようになった。
御匣殿(みくしげどの)…本来は「御匣殿」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。その最上位のものは「別当」と称し、後に女御に昇る予定の女性がまず御匣殿別当に就く事もあった。
中国の皇后位
>後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキー
皇后
>延喜23年(923年)、醍醐天皇が藤原穏子を皇后に冊立したとき、皇后宮職ではなく中宮職が設置されて穏子に付置されることになった。中宮職が皇后に付置された最初の例である。このとき初めて、皇后の呼称とした「中宮」が用いられることになった。
本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇が藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇(既に退位して太上天皇)の皇后(中宮)として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には中宮職から皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに長保2年(1000年)、藤原彰子が皇后とされるに及んで1人の天皇が同時に2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。
http://www.ne.jp/asahi/dicisetnones6/666salvavenia/index.html
解剖 六条源氏物語
http://www.ne.jp/asahi/dicisetnones6/666salvavenia/subtext1.html
源氏物語の謎.
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ストーリー上の謎
①若紫の巻で、藤壺女御が源氏との過去の逢瀬をほのめかしているにもかかわらず、その部分がないことが問題視されてきた。「宮もあさましかりしを思し出づるだに」とあるのに、そのとんでもないエピソードが描かれていないのである。きっと藤壺を主人公とした「かかやく日の宮」とでも呼ぶべき巻があったに違いない、もしくは、それは不敬故に、あるいは品位の問題から、敢えて書かれなかったとする見方、などなど議論を呼ぶ「謎」の代表格である。
私は、この答えを、「書かれている」としたい。今更ながらの指摘だが、「帚木」雨夜の品定めの源氏の居眠り、「空蝉」の女の鼻が低くて目と目が離れていると源氏が難ずる点、そして、「夕顔」のあきらめ含みの十五夜、この三カ所の読解からそう結論づけた次第である。