128 標準語はどうやって決まったの
標準語の取り決めはあるか。
ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準としている言語とすれば、日本語の場合には、ある、あった、と言うべきだろう。
東京方言、それを山の手方言として、下町の方言と区別する形で、標準語の制定が試みられたようである。
いまでも標準的な日本語をその地域を発祥とする言語として意識する。
問いのようにどうやって決まったかとなると、決めるプロセスのは、その後の、共通語という用語にとって代わって、時代の経緯のうちに標準語を決めなくなったと言ってよいので、現実に標準語は決められていない。
ウイキペディアより。
>日本語においては、明治中期から昭和前期にかけて、主に東京山の手の教養層が使用する言葉(山の手言葉)を基に標準語を整備しようという試みが推進された(うち最も代表的で革新的だったのは小学校における国語教科書である)。これに文壇の言文一致運動が大きな影響を与えて、「標準語」と呼ばれる言語の基礎が築かれた。なお、「標準語」という用語は岡倉由三郎によるStandard Languageの日本語訳である。官公庁の公式文書などには、普通文が主に用いられる。
太平洋戦争以後は国家的営為としての標準語政策は行われなくなり、各地の方言を見直す動きが現れたり、国家が特定の日本語を標準と規定することに否定的な考えが生まれたりした。そのような中、「共通語」という用語が登場し、NHKなど一部では「標準語」が「共通語」に言い換えられるようになった。
国語学の世界では、共通語は「現実であり、自然の状態」、標準語は「理想であり、人為的につくられるもの」と定義され、区別された。そうした意味で、現在の日本には標準語を定義・規定する政府機関や団体が存在しないため、公式には標準語は存在しない。しかしながら日常会話において「標準語」という用語は現在もしばしば使用され、その場合「標準語」は東京の口語(東京方言や首都圏方言)を指すことが多い。厳密には標準語と東京の口語そのものは異なる言葉であるが、中央(すなわち現代日本では東京)の言葉を標準語とすることは歴史的に暗黙の了解となっている。
このページは文教大学の学生によって
人間科学大事典を作成するプロジェクトです。
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/標準語誕生の歴史
>「標準語」作りが国家事業として推進されるようになるのは明治時代もなかば過ぎからである。帝国大学博言語学科の初代日本人教授となった上田万年が、『国語のため』ではじめて日本語において「標準語」の必要を説いたのが明治28年、これを受けて文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治35年。明治ももう残り10年という時期であった。同委員会は全般的に近代日本語の基盤作りを行うことが任務であったが、その調査指針のひとつに「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」という柱が立てられており、明治39年には全国調査を踏まえて『口語法調査報告書・同分布図』が刊行され、はじめて方言実態が科学的に明らかにされた。これを踏まえてトップダウンに「標準語を選定する」という国家事業が推進された結果、標準語の具体的規範が明瞭となり、その成果は逐次学校教育に反映されることになる。 明治33年には従来分散されていた日本語関係の教科が「国語科」として統合され、36年からは教科書が固定化されていく。国定教科書編纂にあたっては、『尋常小学読本編纂趣意書』に「文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会二行ワルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ルヲ務ムルト共ニ・・・」と明記され、実質を備えた標準語が学校教育を席巻していく歴史的条件が明治後期において整ったことになる。この後、方言を使った罰としての「方言札」に象徴されるような過度の標準語励行運動、そして海外植民地における皇民化教育の一環としての日本語強制等、また、大正14年から始まったラジオ放送で話される標準語により、共通の日本語、標準語は広まっていき、日本の国語政策は突き進んでゆくことになる。
標準語の取り決めはあるか。
ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準としている言語とすれば、日本語の場合には、ある、あった、と言うべきだろう。
東京方言、それを山の手方言として、下町の方言と区別する形で、標準語の制定が試みられたようである。
いまでも標準的な日本語をその地域を発祥とする言語として意識する。
問いのようにどうやって決まったかとなると、決めるプロセスのは、その後の、共通語という用語にとって代わって、時代の経緯のうちに標準語を決めなくなったと言ってよいので、現実に標準語は決められていない。
ウイキペディアより。
>日本語においては、明治中期から昭和前期にかけて、主に東京山の手の教養層が使用する言葉(山の手言葉)を基に標準語を整備しようという試みが推進された(うち最も代表的で革新的だったのは小学校における国語教科書である)。これに文壇の言文一致運動が大きな影響を与えて、「標準語」と呼ばれる言語の基礎が築かれた。なお、「標準語」という用語は岡倉由三郎によるStandard Languageの日本語訳である。官公庁の公式文書などには、普通文が主に用いられる。
太平洋戦争以後は国家的営為としての標準語政策は行われなくなり、各地の方言を見直す動きが現れたり、国家が特定の日本語を標準と規定することに否定的な考えが生まれたりした。そのような中、「共通語」という用語が登場し、NHKなど一部では「標準語」が「共通語」に言い換えられるようになった。
国語学の世界では、共通語は「現実であり、自然の状態」、標準語は「理想であり、人為的につくられるもの」と定義され、区別された。そうした意味で、現在の日本には標準語を定義・規定する政府機関や団体が存在しないため、公式には標準語は存在しない。しかしながら日常会話において「標準語」という用語は現在もしばしば使用され、その場合「標準語」は東京の口語(東京方言や首都圏方言)を指すことが多い。厳密には標準語と東京の口語そのものは異なる言葉であるが、中央(すなわち現代日本では東京)の言葉を標準語とすることは歴史的に暗黙の了解となっている。
このページは文教大学の学生によって
人間科学大事典を作成するプロジェクトです。
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/標準語誕生の歴史
>「標準語」作りが国家事業として推進されるようになるのは明治時代もなかば過ぎからである。帝国大学博言語学科の初代日本人教授となった上田万年が、『国語のため』ではじめて日本語において「標準語」の必要を説いたのが明治28年、これを受けて文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治35年。明治ももう残り10年という時期であった。同委員会は全般的に近代日本語の基盤作りを行うことが任務であったが、その調査指針のひとつに「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」という柱が立てられており、明治39年には全国調査を踏まえて『口語法調査報告書・同分布図』が刊行され、はじめて方言実態が科学的に明らかにされた。これを踏まえてトップダウンに「標準語を選定する」という国家事業が推進された結果、標準語の具体的規範が明瞭となり、その成果は逐次学校教育に反映されることになる。 明治33年には従来分散されていた日本語関係の教科が「国語科」として統合され、36年からは教科書が固定化されていく。国定教科書編纂にあたっては、『尋常小学読本編纂趣意書』に「文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会二行ワルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ルヲ務ムルト共ニ・・・」と明記され、実質を備えた標準語が学校教育を席巻していく歴史的条件が明治後期において整ったことになる。この後、方言を使った罰としての「方言札」に象徴されるような過度の標準語励行運動、そして海外植民地における皇民化教育の一環としての日本語強制等、また、大正14年から始まったラジオ放送で話される標準語により、共通の日本語、標準語は広まっていき、日本の国語政策は突き進んでゆくことになる。