留学生教育が日本語教育の視点となり、それを辿ることで日本語教育を知る。
留学生を迎えるのは清国留学生の経緯がある。
遡れば留学生の視点は留学僧にまで時代を上がることになるが、そこには日本語教育はない。
したがって第2次大戦の戦後になってふたたび留学生の日本語教育が盛んになるとその契機は何にあるか。
日本政府の留学生受け入れ政策にある。
国語教育からに日本語教育に変わってあらたに留学生に日本語促成教育をしようとした。
いまふうに言えば集中教育である。
そこに、賠償留学生教育と赴日留学生教育がある。
それは1960年のインドネシア留学生の来日であり、そして1979年から戦後における日本語教育の画期となる、中国での赴日予備学校は、まず5か年計画が実行された。友好条約の発効によって1980年代に日本語教育が中国留学生に盛んになった。
国留学生取締規則 とは - コトバンク
kotobank.jp/word/清国留学生取締規則
世界大百科事典 第2版 清国留学生取締規則の用語解説 - 革命と婦人の解放に奔走するその後の短い生涯の一歩を踏み出していたのである。 06年,日本の文部省が清朝留学生の反清活動を規制するため公布した〈清国留学生取締規則〉に抗議する留学生 ...
世界大百科事典内の清国留学生取締規則の言及
【秋瑾】より
…革命と婦人の解放に奔走するその後の短い生涯の一歩を踏み出していたのである。 06年,日本の文部省が清朝留学生の反清活動を規制するため公布した〈清国留学生取締規則〉に抗議する留学生大会が開かれた。男子学生の陳天華らにまじって即刻の抗議帰国を秋瑾は主張した。…
【清】より
…各省留学生の間の雑誌《湖北学生界》《浙江潮》などの論調はしだいに政治化し,1905年8月には,在日留学生を中心として革命派の運動団体である中国同盟会の成立をみた。清朝は,日本政府に革命派の多い私費留学生の取締りを依頼し,これを受けた文部省は,11月2日,〈清国留学生取締規則〉とよばれることになった省令第19号を公布した。留学生は一斉にこれに反発,同盟休校あるいは即時帰国を主張するなどして対抗した。…
【留学】より
…文部省は,〈文部省直轄学校外国委托生ニ関スル規程〉(1900)や〈清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規程〉(1905公布,翌年施行。清国留学生取締規則と通称)などにより,官立学校在学の学生のほか,公・私立の各学校,中国人留学生を対象とする各種の私立学校で修学している留学生に対しても,〈指導〉の名のもとに学業や生活の面での統制・管理を行い,革命派の活動や反日運動を封じ込めようとした。そのため,留学生取締りや日本の侵略政策そのものに対して抗議するために帰国する者も増え,また1915年の二十一ヵ条要求に際しては,在日・帰国留学生がその先頭に立って,抗日運動を展開,ついに37年日中戦争の開始によりほとんどの留学生が帰国した。…
東京朝日新聞 清国留学生取締規則関係記事
www.h3.dion.ne.jp/~maxim/asahimokuji.htm
日付. 見出. 備考. 1905年7月7日. 支那留学生問題 青柳篤恒(寄書). 1905年11月1日. 悪書生取締行. (参考記事). 1905年11月3日. 清国人学校規程. 1905年11月12日. 再び支那留学生問題に就て 青柳篤恒. (清国の科挙全廃と我邦に渡来する清国 ...
清国留学生法政速成科|法政大学
www.hosei.ac.jp › ... › 法政大学の歴史 › 法政大学のエピソード
1904(明治37)年には清国留学生法政速成科が開設されます。この卒業生の中から、中国の近代化、新中国建設に重要な役割を担う人物が輩出されています。法政大学の大きな特色の一つである国際交流の源をここに見いだすことができます。 以下の記事 ...
>1904(明治37)年には清国留学生法政速成科が開設されます。この卒業生の中から、中国の近代化、新中国建設に重要な役割を担う人物が輩出されています。法政大学の大きな特色の一つである国際交流の源をここに見いだすことができます。
以下の記事は、雑誌『法政』2002年5月号-法政大学の歴史<その50>-より抜粋です。
法政大学および法政速成科には、辛亥革命の指導者や、中華民国の中心的存在となった人々が留学生として多く在学していた。
例えば、辛亥革命の世論を準備するのに、最も大きな影響を与えたパンフレットとして鄒容「革命軍」と並び称せられる「猛回頭」「警世鐘」の著者であり、1905年公布された、いわゆる「清国留学生取締規則」に抗議して入水自殺を遂げた陳天華や、のちに南京政府を樹立し、日本のいわゆる傀儡政権を担った汪兆銘をはじめ、宋教仁・胡漢民などがその代表である。
宮崎市定氏が見る日本の清国留学生: 私の研究日記
youmei.asablo.jp/blog/2009/02/12/4114250
2009/02/12 - 中公文庫に『中国文明の歴史』という中国史のシリーズがある。その中でも宮崎市定氏が執筆した『9 清帝国の繁栄』と『11 中国のめざめ』が好きで時々読み返している。宮崎市定氏はフランス留学経験があり(アラビア語)、またフランス・パリ ...
> 以前読んだときは面白い見方があるものだと思っただけだった。でも今読み返してみれば、この時期の清国留学生、前述の京師大学堂の日本人教習・服部宇之吉や岩谷孫蔵が文部省に特別の配慮を依頼して送り込んだのではなかったか。日本人側は特別待遇したつもりだったにも関わらず、中国の上流社会の子弟にとっては日本の留学生活は「宿舎も食物も、生活様式も耐え難い低水準」であり、しかもそれに日本人は「気が付かなかった」というのである。なるほど、と思った。確かにこの時期京師大学堂に入れたのは貴族や官僚及び官僚予備軍といった、多くが広い邸宅で召使いに傅かれて育った上流階級の子弟である。明治の日本人が考えるところの学生宿舎ではとてもその要求に応えられるはずもあるまい。更にそれらの欲求不満が革命運動に結びつき、一方欧米の留学生は生活に満足して安住したから革命運動が流行しなかったという。欧米での生活経験はもとより、鋭い観察力と深い見識があってこそのさりげない文句の一つ一つに宮崎市定氏のすごさを感じる。
参考:宮崎市定『中国文明の歴史 11 中国のめざめ』(中公文庫、2000)
発展史 - 中国赴日留学生予備学校
lryx.nenu.edu.cn/language/japanese/history.html
沿革赴日留学生予備学校は日本の進んだ科学技術を学ぶための赴日留学生を派遣し、中日友好のかけ橋となる人材を養成することを当校創立の趣旨とするものである。 当校設立後、中日教育交流第一回目の五ヶ年計画を実行し、この五年間は主に大学学部 ...
>沿革赴日留学生予備学校は日本の進んだ科学技術を学ぶための赴日留学生を派遣し、中日友好のかけ橋となる人材を養成することを当校創立の趣旨とするものである。 当校設立後、中日教育交流第一回目の五ヶ年計画を実行し、この五年間は主に大学学部生を対象に予備教育を行った。学生は国内の各有名な大学から選抜された在学の一年生で、当校で一年間の予備教育を受けてから日本に留学した。その後、わが国の大学教育は進歩し、学部生だけでなく、修士課程と博士課程の院生を養成する力も備えてきたので、中日両国の新たな協議により、1983年から学部生の派遣を中止し、そのかわりに修士課程の院生を派遣した。1989年から博士課程の院生を送るようになり、その後修了博士を養成することになった。2001年まで当校は各レベルの赴日国費留学生を2736名、地方の進修生を2300余名、合計約5000名を養成した。