尾張うろこの会という。名古屋の芸人は大須演芸場から発信している。そのグループには落語家と講談師と曲芸師と、芸どころはそれだけではないのだろうけれど、ウロコの会として、旭堂南麟師を迎え、旭堂鱗林季明けの口上が行われた21日、土曜日。整理券を配って会場の席が満員という盛況に、開演10分前に到着して驚いた。二階席ならば空いているかもしれないというので、これまた座席がない。2階は畳なので座椅子に腰かけての、中央の通路に座布団を敷いて高みの見物としゃれた。http://www.osuengei.nagoya/lend_calendar/764 旭堂一門会、貸席である。
http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=542573&comment_sub_id=0&category_id=204&from=life&category_list=204
講談師・旭堂南鱗が「尾張うろこの会」 鱗林の年季明け記念
2018/4/16 夕刊
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大阪に本拠を構えるなみはや講談協会会長の旭堂南鱗(なんりん)と、愛知県内の弟子の風鱗、鱗林による「尾張うろこの会」が二十一日、名古屋・大須の大須演芸場で開かれる。
南鱗が各地で開く「うろこの会」の一つで、名古屋でも毎年開催。今回は鱗林の内弟子修業が終わった年季明けを記念し、中入り後に口上を披露する。南鱗は「この日はトリを取らせます。修業が終わって、自由に飛び立ってほしい」と期待を込める。師匠からお祝いでもらった黒紋付きに初めて袖を通すという鱗林は「もう毎日、ネタのことで頭がいっぱい」と話す。
風鱗が「ざこば物語」を演じるほかは、演目は未定。また、尾張うろこの会として初めてゲストを迎える。落語の笑福亭学光は南鱗と一緒に阿波おどりの連を出すなど、公私ともに親しい間柄。めでたい席に、笑いの花を添える。
ウイキペディアより
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ミカン船伝説
文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。
紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来た。この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残った。
ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った。噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開く。こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ。
この伝説は文左衛門の在世中および死去間もない時期の資料には見えない。
https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=129276
日本の話芸 講談「百萬両宝の入船」一龍斎貞水
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シケ続きで船が出ず、産地ではみかんが腐ってゆくばかりの年のこと、紀州和歌之浦の廻船問屋の若き紀伊国屋文左衛門は、みかんを江戸に運び、大儲けしようと考える。父の代に零落し、船は質入している一隻のみ。妻の父から大金を借り、船を質から出し、命知らずの船頭を雇い、みかんを買い占める。一か八かの賭けに出た文左衛門、死に装束に身を固め、みかんを満載した船で、シケの中を江戸に向けて出て行く。