文の定義を言う、その立場は文法論だとする言語行為論の立場である。文そのものが持っている意味、言語行為的意味あるいは文の機能をとらえることに文の成立がある、というのが文論序説の論である。ちょっとわかりにくいのを引用すると、次のよう。
>これらの意味は言語を発するにあたっての目的意味なのであるから、文を発する以上、その文に必ずつきまとう。また、それは文が文として担うものであるから、その意味を表す形式は必ずしも文のなかに存在しなくてもよいものなのである。文論序説 402ページ
意味的側面として文を規定すると、ここをよく読むと、ここだけで断じるのは不足があるかもしれない、しかし、意味を表す形式が文のなかに存在しなくてもよいとは、文法形式を論じるのは無意味ということに聞こえてくる。
が、まさにその論が拠ってくる立場で述べられているのであるのだから、その説明が縷々あったとして、「切る」ことが行われたところで文は成立するという帰結は、文成立の外形的側面の「きれる」「きる」という、意味的な側面が内包されての行為にあるものとなるようである。
>結局、文とは、「一つの発語的内目的を持つ語・語列、あるいは、一つの発語内目的を持つ語・語列を(続けられる場合において)接続形式で連接させたもの」というものである。 同書 403ページ (この規定は同書211ページに論がある)
>あるいは、文とは目的的意味としての言語行為的な意味・文の機能を担う、談話を構成する単位体ということである。 同上
この議論は、主観性、モダリティー、喚体句に及ぶもののようであるが、さしあたっての締めくくりで、文法論の再構築を招来する課題としているので、序説たるゆえんの論議であることがわかる。
ただ、談話を構成する単位体というくくりは文を文法としない言いでもある。