日本語教育の歴史は宣教師のための日本語に始まる。16世紀半ばに鉄炮記によれば1543年、種子島へ鉄砲が伝来する。ポルトガル人がやってきて、ほどなくして1549年、ザビエルが来日した。なかでもロドリゲスは文法書を記述して日本語研究に大きな足跡を残した。
ウイキペディアより。
>文献などではっきりと分かっている史料から、日本に到達した最初のキリスト教宣教師はザビエルであるとされる。彼はイエズス会の創立メンバーの一人であり、すでにインドでの宣教活動で大きな成功を収めていた。しかし、彼はインドでは宣教活動において植民活動をすすめていたポルトガル政府の干渉を受けることに不満を持っていた。そのころ、倫理意識が強く教育水準の高い国民が多いという日本の噂を聞き、実際にヤジロウという日本人と出会った。そして、ポルトガル政府に干渉されない日本で自由に宣教してみたいと思うようになった。こうしてザビエルはインドを離れ、1549年に念願の日本に到着した。
ザビエル自身は、2年ほどで日本を離れ、さらに中国への布教を目指すこととなったが、ザビエルに続き、多くのイエズス会員が日本を訪れた。彼らの戦略は適応主義とよばれ、ヨーロッパ本国における価値観や方針を守ることよりも、現地の文化を尊重して、教勢を拡大することを優先した。
>ジョアン・ロドリゲスである。1561年に生まれ、経緯不明ながら1574年に若くして母国を発ち、インド、マカオを経て1577年に日本到着しイエズス会に入った。1581年府内(大分)の神学校で学び、1587年のバテレン追放令後も有馬の神学校で勉学を続け、翌年には日本人学生にラテン語を教えたという。1591年フロイスの後任通訳としてヴァリニャーノと長崎へ。1595年10月に日本を発ち、翌年マカオで司祭叙階を受け、8月に日本へ戻った。秀吉に気に入られ、1598年9月18日の秀吉死去の2週間前に2度見舞いをしている。イエズス会の会計責任者となり、1601年徳川家康からポルトガル商人との交渉役を仰せつかって活動したが、政治への関与と行き過ぎた商売はイエズス会内部からも反発があり、ポルトガルの台頭に不安を抱いた家康から1610年に日本追放となった。
日本語教育史概略
16世紀~18世紀
ポルトガル人カトリック宣教師達が キリスト教布教のために日本語を学び、日本語学習書・研究所を作った。また、日本人漂流民がカムチャトカ半島、北千島、アリューシャン列島などに漂着し、そのうちロシアの日本語学校で日本語を教えた。大阪の商人デンベイらは日本語史・方言研究などの面で功績を残すことになった。
1 キリシタン宣教師団と日本語学習
学習法(初期)…習うより慣れろ
学習書…始めに辞書ありき、そして文法書(文典)
キリシタン語学書の日本語史研究資料としての価値…ローマ字表記から当時の発音の実際が推定できる。
例えば、ハ行音、サ行音など。 farai(ファライ)→払ひ saxeraruru(サシェラルル)→させらるる
J.ロドリゲス(Joam Rodriguez) ロドリゲスの著した語学書
『日本大文典』全3巻 1604~1608年 長崎学林刊
第1巻:活用及び品詞についての紹介
第2巻:統語論(日本語の単語の並べ方)についての紹介・敬語、アクセントについて
第3巻:言語生活についての紹介 学習者用辞典、文体・人名についても紹介
『日本語小文典』1620年マカオ刊 教師用辞典、日本語の特徴や学習方法
2 中国・朝鮮で作られた日本語学習・研究書
・ 中国
『日本寄語』 全1巻 1523年刊 倭寇対策
『日本館訳語』 編纂者未詳 1429~1549年刊 明時代の中国人通訳養成
『日本一鑑』1566年頃刊
・ 朝鮮
『捷解新語』 全10巻 康遇聖編 1676年刊
『倭語類解』 全2巻 洪舜明編 1780年刊
『隣語大方』 崔麒齢編 1790年
3 「日本語教師」になったロシアへの日本人漂流民
デンベイ(伝兵衛) 日本語学習日本事情調査のインフォーマントに利用
ゴンザ 日本語のテキスト・参考書・辞書を作成
『露日語彙集』 『日本語会話入門』『簡略日本文法』『新スラヴ日本語辞典』
『友好会話手本集』『Orbis pictus』
サノスケの子タターリノフ
『レクシコン』を編集
大黒屋光太夫
パラス編の『欽定全世界言語比較辞典』の改訂の仕事に参加
掲載された300近い日本語単語には光太夫の出身地伊勢の方言の特色
ポルトガル人とロシア人の違い
16世紀後半から17世紀にかけて来日したポルトガル人達は日本でいろいろな日本語に出会うことができた。 標準的な日本語と方言との区別もできた。 一方ロシア人の場合は漂流民の話す日本語(方言)がすべてであった。
4 19世紀
ヨーロッパで日本・日本語研究が始まった。
オランダ ライデン大学(1851)ホフマン
フランス 国立東洋語学校(1868)レオン・ド・ロニー
オーストリア ウィーン大学(1869) フィッツマイヤー
5 ヨーロッパの日本語・日本研究
ドイツ人シーボルトが日本文献や資料をオランダに持ち帰り、『日本(Nippon)』を刊行。
シーボルト(1796-1866)
1823 医者として長崎出島に来る。
1828 日本の地図を持ち帰ったので、日本国から追放。(当時、地図は軍事機密)
伊能忠敬(1745-1818)日本の実測地図を作る。
ホフマン(1805-1878)
『日本文典』(1867)
オランダ留学生西周矢、榎本武揚に日本語を学んだ。
1851年ライデン大学最初の日本語教授
オランダ政府の委託によってオランダ国民が日本語を習得するために編纂された
連用形が基本
6 鎖国政策後、日本語研究
クルチウス(1813-1879)『日本文典』
オールコック(1809-1897)『初学者用日本文法要説』(1861)
アーネスト・サトー(1843-1929)『英日口語辞書』(1876)
アストン(1841-1911)『日本口語小文典』(1869)『日本文語文典』(1872)
7 宣教師の日本語研究
ブラウン(1810-1880)『日本語会話』(1863)
ヘボン(1815-1911)『和英語林集成』(1867)
8 日本語研究目的に来日した外国人
チェンバレン(1850-1935)
1886年東京大学博言学科の教師になる
『日本口語便覧』(1888)
9 19世紀末 ~ 20世紀 台湾 国語教育としての日本語教育
この時直接法で先駆的業績をあげたのが山口喜一郎である。「日韓併合」で、朝鮮半島でも山口喜一郎が指導したが、皇民化教育がつよく推進され、国語常用が強制されて、創氏改名も行われた。しかし押し付けの政策は成功には至らなかった。戦時下には台湾・朝鮮半島以外に満州、東南アジアでも日本語教育が行われた。
10 台湾 日本語教育以前
1881年朝鮮からの留学生が福沢諭吉の慶応義塾と、中村正直の同人社で日本語を習った
中村正直(1832-1891)啓蒙学者
1893年松宮弥平が群馬県前橋でアメリカ人宣教師に日本語を教える
11 1895年台湾における日本語教育
1894-1895日清戦争
1895下関条約
皇民化教育を台湾へ…同化政策
芝山巌学堂(1895) 台湾で最初の日本語学校
伊沢修二(1851-1917)
山口喜一郎(1872-1952)
日本語教育者 1897年台湾で伊沢修二の後を引き継ぎ新しい教授法を試みた。
グアン式教授法:グアン(1831-1895)の提唱した教授法、直接法
直接法に導入により、台湾の日本語教育は軌道に乗り、皇民化国語教育として、敗戦(1945)まで続いた。
12 清国留学生に対する速成日本語教育
1904年日露戦争
1905年清国からの来日留学生、総数8000人以上になる。
嘉納治五郎(1860-1938)
大日本体育協会の創立者。 柔道家としても知られるが、最初の清国留学生を指導した人物で、宏文学院の創設者でもある。
松本亀次郎(1866-1945)日本語教師
中国人留学生専門の日本語教師 1903年から宏文学院で教える。(1907年まで)
1907~1912年京師法学童に教師として迎えられ、中国へ行く。
日華同人共立東亜高等予備学校設立 多くの教科書や参考書を著した。
『訂正日本語教科書』1906 『言文対照漢訳日本文典』
松下大三郎(1878-1935) 1905年宏文学院に日本語教師として招かれる。
『漢訳日本口語文典』1907 『日本俗語文典』1901
『標準日本語法』1930 『標準日本文法』1924
文献:
日本語教育史研究序説
関正昭 著
1895年から現在に至るまでの日本語教育の流れを軸に、総括的に日本語教育史を分析した入門書。特に植民地政策としての日本語教育の実態を様々な資料を基に明らかにする。また15~16世紀の宣教師、漂流民、明治以降の移民、海外の教育機関やテキストなど日本語教育に関わるあらゆる要素を体系的に網羅。詳細な年表も収録。
ウイキペディアより。
>文献などではっきりと分かっている史料から、日本に到達した最初のキリスト教宣教師はザビエルであるとされる。彼はイエズス会の創立メンバーの一人であり、すでにインドでの宣教活動で大きな成功を収めていた。しかし、彼はインドでは宣教活動において植民活動をすすめていたポルトガル政府の干渉を受けることに不満を持っていた。そのころ、倫理意識が強く教育水準の高い国民が多いという日本の噂を聞き、実際にヤジロウという日本人と出会った。そして、ポルトガル政府に干渉されない日本で自由に宣教してみたいと思うようになった。こうしてザビエルはインドを離れ、1549年に念願の日本に到着した。
ザビエル自身は、2年ほどで日本を離れ、さらに中国への布教を目指すこととなったが、ザビエルに続き、多くのイエズス会員が日本を訪れた。彼らの戦略は適応主義とよばれ、ヨーロッパ本国における価値観や方針を守ることよりも、現地の文化を尊重して、教勢を拡大することを優先した。
>ジョアン・ロドリゲスである。1561年に生まれ、経緯不明ながら1574年に若くして母国を発ち、インド、マカオを経て1577年に日本到着しイエズス会に入った。1581年府内(大分)の神学校で学び、1587年のバテレン追放令後も有馬の神学校で勉学を続け、翌年には日本人学生にラテン語を教えたという。1591年フロイスの後任通訳としてヴァリニャーノと長崎へ。1595年10月に日本を発ち、翌年マカオで司祭叙階を受け、8月に日本へ戻った。秀吉に気に入られ、1598年9月18日の秀吉死去の2週間前に2度見舞いをしている。イエズス会の会計責任者となり、1601年徳川家康からポルトガル商人との交渉役を仰せつかって活動したが、政治への関与と行き過ぎた商売はイエズス会内部からも反発があり、ポルトガルの台頭に不安を抱いた家康から1610年に日本追放となった。
日本語教育史概略
16世紀~18世紀
ポルトガル人カトリック宣教師達が キリスト教布教のために日本語を学び、日本語学習書・研究所を作った。また、日本人漂流民がカムチャトカ半島、北千島、アリューシャン列島などに漂着し、そのうちロシアの日本語学校で日本語を教えた。大阪の商人デンベイらは日本語史・方言研究などの面で功績を残すことになった。
1 キリシタン宣教師団と日本語学習
学習法(初期)…習うより慣れろ
学習書…始めに辞書ありき、そして文法書(文典)
キリシタン語学書の日本語史研究資料としての価値…ローマ字表記から当時の発音の実際が推定できる。
例えば、ハ行音、サ行音など。 farai(ファライ)→払ひ saxeraruru(サシェラルル)→させらるる
J.ロドリゲス(Joam Rodriguez) ロドリゲスの著した語学書
『日本大文典』全3巻 1604~1608年 長崎学林刊
第1巻:活用及び品詞についての紹介
第2巻:統語論(日本語の単語の並べ方)についての紹介・敬語、アクセントについて
第3巻:言語生活についての紹介 学習者用辞典、文体・人名についても紹介
『日本語小文典』1620年マカオ刊 教師用辞典、日本語の特徴や学習方法
2 中国・朝鮮で作られた日本語学習・研究書
・ 中国
『日本寄語』 全1巻 1523年刊 倭寇対策
『日本館訳語』 編纂者未詳 1429~1549年刊 明時代の中国人通訳養成
『日本一鑑』1566年頃刊
・ 朝鮮
『捷解新語』 全10巻 康遇聖編 1676年刊
『倭語類解』 全2巻 洪舜明編 1780年刊
『隣語大方』 崔麒齢編 1790年
3 「日本語教師」になったロシアへの日本人漂流民
デンベイ(伝兵衛) 日本語学習日本事情調査のインフォーマントに利用
ゴンザ 日本語のテキスト・参考書・辞書を作成
『露日語彙集』 『日本語会話入門』『簡略日本文法』『新スラヴ日本語辞典』
『友好会話手本集』『Orbis pictus』
サノスケの子タターリノフ
『レクシコン』を編集
大黒屋光太夫
パラス編の『欽定全世界言語比較辞典』の改訂の仕事に参加
掲載された300近い日本語単語には光太夫の出身地伊勢の方言の特色
ポルトガル人とロシア人の違い
16世紀後半から17世紀にかけて来日したポルトガル人達は日本でいろいろな日本語に出会うことができた。 標準的な日本語と方言との区別もできた。 一方ロシア人の場合は漂流民の話す日本語(方言)がすべてであった。
4 19世紀
ヨーロッパで日本・日本語研究が始まった。
オランダ ライデン大学(1851)ホフマン
フランス 国立東洋語学校(1868)レオン・ド・ロニー
オーストリア ウィーン大学(1869) フィッツマイヤー
5 ヨーロッパの日本語・日本研究
ドイツ人シーボルトが日本文献や資料をオランダに持ち帰り、『日本(Nippon)』を刊行。
シーボルト(1796-1866)
1823 医者として長崎出島に来る。
1828 日本の地図を持ち帰ったので、日本国から追放。(当時、地図は軍事機密)
伊能忠敬(1745-1818)日本の実測地図を作る。
ホフマン(1805-1878)
『日本文典』(1867)
オランダ留学生西周矢、榎本武揚に日本語を学んだ。
1851年ライデン大学最初の日本語教授
オランダ政府の委託によってオランダ国民が日本語を習得するために編纂された
連用形が基本
6 鎖国政策後、日本語研究
クルチウス(1813-1879)『日本文典』
オールコック(1809-1897)『初学者用日本文法要説』(1861)
アーネスト・サトー(1843-1929)『英日口語辞書』(1876)
アストン(1841-1911)『日本口語小文典』(1869)『日本文語文典』(1872)
7 宣教師の日本語研究
ブラウン(1810-1880)『日本語会話』(1863)
ヘボン(1815-1911)『和英語林集成』(1867)
8 日本語研究目的に来日した外国人
チェンバレン(1850-1935)
1886年東京大学博言学科の教師になる
『日本口語便覧』(1888)
9 19世紀末 ~ 20世紀 台湾 国語教育としての日本語教育
この時直接法で先駆的業績をあげたのが山口喜一郎である。「日韓併合」で、朝鮮半島でも山口喜一郎が指導したが、皇民化教育がつよく推進され、国語常用が強制されて、創氏改名も行われた。しかし押し付けの政策は成功には至らなかった。戦時下には台湾・朝鮮半島以外に満州、東南アジアでも日本語教育が行われた。
10 台湾 日本語教育以前
1881年朝鮮からの留学生が福沢諭吉の慶応義塾と、中村正直の同人社で日本語を習った
中村正直(1832-1891)啓蒙学者
1893年松宮弥平が群馬県前橋でアメリカ人宣教師に日本語を教える
11 1895年台湾における日本語教育
1894-1895日清戦争
1895下関条約
皇民化教育を台湾へ…同化政策
芝山巌学堂(1895) 台湾で最初の日本語学校
伊沢修二(1851-1917)
山口喜一郎(1872-1952)
日本語教育者 1897年台湾で伊沢修二の後を引き継ぎ新しい教授法を試みた。
グアン式教授法:グアン(1831-1895)の提唱した教授法、直接法
直接法に導入により、台湾の日本語教育は軌道に乗り、皇民化国語教育として、敗戦(1945)まで続いた。
12 清国留学生に対する速成日本語教育
1904年日露戦争
1905年清国からの来日留学生、総数8000人以上になる。
嘉納治五郎(1860-1938)
大日本体育協会の創立者。 柔道家としても知られるが、最初の清国留学生を指導した人物で、宏文学院の創設者でもある。
松本亀次郎(1866-1945)日本語教師
中国人留学生専門の日本語教師 1903年から宏文学院で教える。(1907年まで)
1907~1912年京師法学童に教師として迎えられ、中国へ行く。
日華同人共立東亜高等予備学校設立 多くの教科書や参考書を著した。
『訂正日本語教科書』1906 『言文対照漢訳日本文典』
松下大三郎(1878-1935) 1905年宏文学院に日本語教師として招かれる。
『漢訳日本口語文典』1907 『日本俗語文典』1901
『標準日本語法』1930 『標準日本文法』1924
文献:
日本語教育史研究序説
関正昭 著
1895年から現在に至るまでの日本語教育の流れを軸に、総括的に日本語教育史を分析した入門書。特に植民地政策としての日本語教育の実態を様々な資料を基に明らかにする。また15~16世紀の宣教師、漂流民、明治以降の移民、海外の教育機関やテキストなど日本語教育に関わるあらゆる要素を体系的に網羅。詳細な年表も収録。