日本語文法議論23910
日本語が漢語をとり入れて漢文を学び、広く西洋語に接して英語を学び、その学びに日本語があるという仮説をわたしは持つ。
その学びの証明には句を成立させてきたこと、主格を文に見出したことを取り上げることができる。
むずかしいことを言おうとするのではないから、それだけに専門研究の煩雑なことはこの上ないと、しろうとは思ってもいい。
句は文章の切れ目を工夫したことに、文章というのはこれまた口を突いて出る言葉の連続からすると、歌謡とか、伝承してきた先祖のこととか、語りには不可欠な、それを言い、伝えるためにどうしてきたか、わたしたちにも素朴に教えられることがある。演説口調でしり上がりトーンを使った世代の記憶を持つから、いつの世でも同じだろう、するとその切れ目を言う、つまり言葉ではない、音調であったり、口調であったりするものである。そこでする息継ぎには語り手の切れ目に対する意識が働いているから、音にもならないものから、それを受け止める側にもここで切れていると感じさせる息遣いに近くなること、そのものを指して言うと、それはなにになるか。
論語の素読ではどのようにしたろうか。漢詩では韻を踏むからそこで調子を持つし、章句となる読みの工夫では文章にリズムを作るだろう、その止まり方、切り方が、句になる、勾玉のような飾りとなれば、まさに句は文章の曲がるところ、勾であるし、そこでわたしたちは言葉に単位を作り、それを聞いて切れ目とつながりを知ることになる。和歌の文芸とする、その古代歌謡が始まったころ、人々の口に載せたのはリズムであるに違いない、五七調というがそれは五音七音と数えるようなものでもなく息の長さが加われば、六八になる調子とも見られるのでステップの終わりには休止か何かがあったろうから、そこで切れるわけである。漢詩漢文と、歌謡に物語となるそれぞれの文章に工夫があったのである。いま、そこに、句読を入れている、テンとマルを打ち、目で見やすくする符号となった。
古典で言えば源氏物語の文章を始めから終わりまで、どこで物語が終わるかだが、どこまでも読点だけで済むと見ることもできるし、実際にそのように読んでみるとわかる。語りものと言えば平家物語はどのようにして琵琶の音に語りを聞かせようとしたのだろうか。和歌、連歌、然り。面白いのは随筆と言えば枕草子の物言いである。
春はあけぼの、と言い出して、聞きようによれば、やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる、
>春の夜明けのすばらしさ。すこしずつ白しらんでいく山ぎわの空のほの明かりのなか、紫がかった横雲のたなびく優雅さを、なんと言おう。
と読む人もいて、おおかたそうであろう、あけぼの とだけで、これに続いて、なつはよる、とかになると、聞いている側はその勢いを聞いていなければならなくなるではないか。雨など降るも、をかし、と、こういってくれなければ、何のことだったのか、言いたいのは、切ってみなければわからない文章になるはずである。