日本語に文という概念は、明治以降のもの、西欧の言語に影響してつくられたものである。句に対して文を設定することは意識されることがなかった、というのは、文法の翻訳概念に前提として文が日本語に入ってきたのである。文と言い、文章とも言っていた翻訳概念は、学校教育の文法に確立して、広くいきわたる。文の成立を文法論議で据えることは異論をはさむのではない。文法の概念そのものに、文がある、文を分析することから始まる。したがって、文法を言うもの、また日本文法を批判するものには必ず、文の成立を捉えて議論をしなければならないが、文に求めるその要素、そこから語について、そして、品詞に至る分析に、日本文法はただ一つの議論を立てようとしてこなかった。文にある必須要素について、その見方を区別することである。結果において、日本文の主語を規定できなくなってしまって、補語にする考え方で、そこにあるのは文を主語述語という構成と、補語述語という構成で立場を分けていることである。文には主語があるが、それはその文の成立に必須要素でないとする議論の難しさをつくってしまっている。文章に主語があるのである。
日本語に文という概念は、明治以降のもの、西欧の言語に影響してつくられたものである。句に対して文を設定することは意識されることがなかった、というのは、文法の翻訳概念に前提として文が日本語に入ってきたのである。文と言い、文章とも言っていた翻訳概念は、学校教育の文法に確立して、広くいきわたる。文の成立を文法論議で据えることは異論をはさむのではない。文法の概念そのものに、文がある、文を分析することから始まる。したがって、文法を言うもの、また日本文法を批判するものには必ず、文の成立を捉えて議論をしなければならないが、文に求めるその要素、そこから語について、そして、品詞に至る分析に、日本文法はただ一つの議論を立てようとしてこなかった。文にある必須要素について、その見方を区別することである。結果において、日本文の主語を規定できなくなってしまって、補語にする考え方で、そこにあるのは文を主語述語という構成と、補語述語という構成で立場を分けていることである。文には主語があるが、それはその文の成立に必須要素でないとする議論の難しさをつくってしまっている。文章に主語があるのである。