連語について、語の連なり、短句、そして共起と言い換えることがある。共起はコロケーションである。連語はまた慣用句として知られる。日本語文法はさらに複合辞とする。それを連語論となると、少し違う様相となる。それは日本語文法で連語論を位置づける。わかりやすくとらえれば、一冊の書に行き当たる。その書評を引用しておくとわかりよい。『日本語文法・連語論(資料編)』、昭和五十八年五月三十一日発行である。麦書房刊。それについて、当時、大阪女子大学助教授であった仁田氏が書いている、昭和五十九年十一月八日に 受理としている。
http://db3.ninjal.ac.jp/SJL/txtview.php
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第140集1985-03-30
著者:仁田義雄;
タイトル:言語学研究会編『日本語文法・連語論(資料編)』を読んで
一
貴重な労作である。特に、奥田靖雄のヲ格・ニ格の連語についての論文は、連語研究、動詞についての語彙-統語的な研究にとって、今後永くその基本となる極めて重要な論文である。
本書には、動詞をかざられ(他の単語を従属させる軸となる構成要素)とし、名詞をかざり(他の単語に従属する構成要素)とする連語についての論文が九編収められている。連語とは、本書によれば、二つ以上の自立的な単語の従属的な組み合わせで、かつ一つの名づけ的な意味を表す言語単位のことである。さらに、責任編集者である鈴木重幸・鈴木康之の「編集にあたって」という一文と収録論文で扱われている動詞の索引が加えられている。「編集にあたって」は、連語についての一般的な全体的な説明と各論文の成立事情を述べたもの。したがって、単なるまえがきではない。個別研究・各論に対する総論に当たる。連語一般について述べたものには、既に奥田靖雄「言語の単位としての連語」(『日本語研究の方法』所収)があり、鈴木康之が本書刊行後『教育国語』73号に「連語とはなにか」を書いている。これらは、総論として、各論に当たる本書収録の個別研究を読むうえに参考になる。
次の九編が本書収録の九編である。
(一)奥田靖雄「を格の名詞と動詞とのくみあわせ」、これは、奥田が一九六八年から七二年にかけて、雑誌『教育国語』12号から28号に断続的に掲載したものである。
(二)奥田靖雄「を格のかたちをとる名詞と動詞とのくみあわせ」、これは六〇年に書かれたもので、未公刊。「教育国語版」ヲ格の連語の草稿に当たるもの。
(三)奥田靖雄「に格の名詞と動詞とのくみあわせ」、この論文は六二年に書かれたもので、やはり未公刊であったもの。ヲ格・ニ格の連語についての奥田の論文が、六〇年代の極く初期といった早い時期に書かれていることに一つの驚きを覚える。先駆性に富んだ仕事である。
(四)奥田靖雄「で格の名詞と動詞とのくみあわせ」、六七年に書かれたもので、やはり、これも未公刊。
(五)渡辺友左「へ格の名詞と動詞のくみあわせ」、これは六三年に書かれたもので、やはり未公刊である。
(六)渡辺義夫「カラ格の名詞と動詞とのくみあわせ」、やはり未公刊で、五九年と六〇年と六六年に書かれている。
(七)荒正子「から格の名詞と動詞とのくみあわせ」、七五年の『教育国語』40、41号に掲載されたものである。カラ格の連語については、渡辺の論文が先行し、荒の論文はそれに拠ったものである。
(八)井上拡子「格助詞『まで』の研究」、六三年に書かれたもので、やはり未公刊である。
(九)荒正子「まで格の名詞と動詞とのくみあわせ」、七七年の『教育国語』50号に掲載されたものである。これも、マデ格の連語についての井上の研究に依拠し、それを引き触いでいる。
以上、本書には、動詞をかざられとし名詞をかざりとする連語の大部分が含まれている。動詞をかざられとし名詞をかざりとする連語で本書に存在しないのは、ト格の連語のみである。
名のみ知られていて、内容を知ることのできなかった未公刊の論文が多数収録され、また、ばらばらに掲載されていた論文が一カ所に纒められていて、連語論、動詞の語彙-統語的な研究、格などに興味を持つ研究者にとって、いやそれにとどまらず文法論、語彙論、意味論に携わる研究者にとって、一読すべき本になっている。私などにとっては待望久しかった本である。
全体の半分以上を奥田の論文が占めているにしても、本書は、奥田靖雄を中核とする言語学研究会という集団の仕事である。言語学研究会のメンバーが報告し書き残した連語についての九編の論文を収めたものが本書である。そこに、あるべき意味でのスクール・学派の存在を感じる。日本には学派といったものがほとんどない。本書は、良い意味でも悪い意味でも学派の仕事であるといった特徴を備えている。本書は、その意味においても注目に値するし、したがって、学派といった観点からも、日本における言語・日本語研究史の中に位置づけられなければならない。
何度か読み直してみた。何度か読んでの総体的な印象を二三書き連ねる。
特に、奥田のヲ格の連語についての論文は、雑誌時代にも何度か読んだし、本書に収録されてからも何度か読んだ。本書を何度か読んだということは、とりも直さず本書が何度も読むに値する息の長い価値の高いものであることを示しているのであろう。
本書は、複数の人間の手になる論文集でありながら粒がそろい、一定の質の高さを保っている。これには、次の事が関係するのであろう。巻末に付された動詞索引に収められた動詞の数が充分多数であることにまず気づくであろう。さらに、用例が極めて豊富であることが分かる。この点においてだけでも、本書は、これから動詞を軸とする連語、動詞の語彙-統語的な研究にとって、基礎資料として永く生き残りつづけるだろう。これは、本書収録の諸研究が、極めて実証性に富み、説明のしやすい取り扱いやすい所だけを扱ったものではなく、対象となる現象を残らず扱おうとする包括性を目指すものであることを示している。研究の質の高さは、まずこの実証性と包括性によって保証されている。奥田の論文と他の論文との関係は、奥田の論文を雛形とし、それに範をとるといったものである。学派的な研究であるということが、また収録論文の質の高さを押し上げている。
私が強く共感を覚えたのは、「かざられの語彙的な意味がかざりの存在を要求することになる」(一一頁)「かざられの語彙=文法的な性格を土台にする結合能力にしたがって、連語はくみたてられる」(七二頁)といった考え方・方法論上の基本姿勢である。ここには、語の有している語彙的な意味とその語の有している結合能力、さらに言えば、その語の示す文法的な撮舞い方とに相関関係があるといった極めて正当な認識が存在している。
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第140集1985-03-30
著者:仁田義雄;
タイトル:言語学研究会編『日本語文法・連語論(資料編)』を読んで
一
貴重な労作である。特に、奥田靖雄のヲ格・ニ格の連語についての論文は、連語研究、動詞についての語彙-統語的な研究にとって、今後永くその基本となる極めて重要な論文である。
本書には、動詞をかざられ(他の単語を従属させる軸となる構成要素)とし、名詞をかざり(他の単語に従属する構成要素)とする連語についての論文が九編収められている。連語とは、本書によれば、二つ以上の自立的な単語の従属的な組み合わせで、かつ一つの名づけ的な意味を表す言語単位のことである。さらに、責任編集者である鈴木重幸・鈴木康之の「編集にあたって」という一文と収録論文で扱われている動詞の索引が加えられている。「編集にあたって」は、連語についての一般的な全体的な説明と各論文の成立事情を述べたもの。したがって、単なるまえがきではない。個別研究・各論に対する総論に当たる。連語一般について述べたものには、既に奥田靖雄「言語の単位としての連語」(『日本語研究の方法』所収)があり、鈴木康之が本書刊行後『教育国語』73号に「連語とはなにか」を書いている。これらは、総論として、各論に当たる本書収録の個別研究を読むうえに参考になる。
次の九編が本書収録の九編である。
(一)奥田靖雄「を格の名詞と動詞とのくみあわせ」、これは、奥田が一九六八年から七二年にかけて、雑誌『教育国語』12号から28号に断続的に掲載したものである。
(二)奥田靖雄「を格のかたちをとる名詞と動詞とのくみあわせ」、これは六〇年に書かれたもので、未公刊。「教育国語版」ヲ格の連語の草稿に当たるもの。
(三)奥田靖雄「に格の名詞と動詞とのくみあわせ」、この論文は六二年に書かれたもので、やはり未公刊であったもの。ヲ格・ニ格の連語についての奥田の論文が、六〇年代の極く初期といった早い時期に書かれていることに一つの驚きを覚える。先駆性に富んだ仕事である。
(四)奥田靖雄「で格の名詞と動詞とのくみあわせ」、六七年に書かれたもので、やはり、これも未公刊。
(五)渡辺友左「へ格の名詞と動詞のくみあわせ」、これは六三年に書かれたもので、やはり未公刊である。
(六)渡辺義夫「カラ格の名詞と動詞とのくみあわせ」、やはり未公刊で、五九年と六〇年と六六年に書かれている。
(七)荒正子「から格の名詞と動詞とのくみあわせ」、七五年の『教育国語』40、41号に掲載されたものである。カラ格の連語については、渡辺の論文が先行し、荒の論文はそれに拠ったものである。
(八)井上拡子「格助詞『まで』の研究」、六三年に書かれたもので、やはり未公刊である。
(九)荒正子「まで格の名詞と動詞とのくみあわせ」、七七年の『教育国語』50号に掲載されたものである。これも、マデ格の連語についての井上の研究に依拠し、それを引き触いでいる。
以上、本書には、動詞をかざられとし名詞をかざりとする連語の大部分が含まれている。動詞をかざられとし名詞をかざりとする連語で本書に存在しないのは、ト格の連語のみである。
名のみ知られていて、内容を知ることのできなかった未公刊の論文が多数収録され、また、ばらばらに掲載されていた論文が一カ所に纒められていて、連語論、動詞の語彙-統語的な研究、格などに興味を持つ研究者にとって、いやそれにとどまらず文法論、語彙論、意味論に携わる研究者にとって、一読すべき本になっている。私などにとっては待望久しかった本である。
全体の半分以上を奥田の論文が占めているにしても、本書は、奥田靖雄を中核とする言語学研究会という集団の仕事である。言語学研究会のメンバーが報告し書き残した連語についての九編の論文を収めたものが本書である。そこに、あるべき意味でのスクール・学派の存在を感じる。日本には学派といったものがほとんどない。本書は、良い意味でも悪い意味でも学派の仕事であるといった特徴を備えている。本書は、その意味においても注目に値するし、したがって、学派といった観点からも、日本における言語・日本語研究史の中に位置づけられなければならない。
何度か読み直してみた。何度か読んでの総体的な印象を二三書き連ねる。
特に、奥田のヲ格の連語についての論文は、雑誌時代にも何度か読んだし、本書に収録されてからも何度か読んだ。本書を何度か読んだということは、とりも直さず本書が何度も読むに値する息の長い価値の高いものであることを示しているのであろう。
本書は、複数の人間の手になる論文集でありながら粒がそろい、一定の質の高さを保っている。これには、次の事が関係するのであろう。巻末に付された動詞索引に収められた動詞の数が充分多数であることにまず気づくであろう。さらに、用例が極めて豊富であることが分かる。この点においてだけでも、本書は、これから動詞を軸とする連語、動詞の語彙-統語的な研究にとって、基礎資料として永く生き残りつづけるだろう。これは、本書収録の諸研究が、極めて実証性に富み、説明のしやすい取り扱いやすい所だけを扱ったものではなく、対象となる現象を残らず扱おうとする包括性を目指すものであることを示している。研究の質の高さは、まずこの実証性と包括性によって保証されている。奥田の論文と他の論文との関係は、奥田の論文を雛形とし、それに範をとるといったものである。学派的な研究であるということが、また収録論文の質の高さを押し上げている。
私が強く共感を覚えたのは、「かざられの語彙的な意味がかざりの存在を要求することになる」(一一頁)「かざられの語彙=文法的な性格を土台にする結合能力にしたがって、連語はくみたてられる」(七二頁)といった考え方・方法論上の基本姿勢である。ここには、語の有している語彙的な意味とその語の有している結合能力、さらに言えば、その語の示す文法的な撮舞い方とに相関関係があるといった極めて正当な認識が存在している。