節について、主語を文要素とするかどうか、その立場で議論をする。文における主節、従属節の分析になる。それはまた翻訳文法の概念であるから、接続詞の類によって、文を表す主語をどのように認めるかというふうに、等位、従属などの捉えかたになる。日本語ではその分類をすることはないから、接続の関係には、国語で接続助詞、接続詞、さらには接続語の単位をもって析出することができる。しかし、この国語の考え方は節と句の境界を持たないものとなる。句に同様にして、従属句、接続の句の働きを語と語との連合で認める。先の節が主語を要素とする立場であるから、句はその前提において、節に主語がない場合に、句の単位となるというものである。これは議論としてわかりよいことであるから、その点で、句と節の違いを述べることは可能である。そこでまた、文の要素には主語があるとする視点に、国語は必須要素であるかどうかの議論があって、必ずしもそうではないことから、節が文であり、句がまた文の単位であるかどうか、その境界を持たないことになる。節に主語がなくてもよいなら、それは句の単位でよいことになるから、従属句という要素規定の広い捉え方が可能である。なおまた、文節という単位が文の主節、従属節を表すことがない。分の構成要素に文節があり、それはいわば直接構成要素であって、国語での句の単位に文節がある。すなわち、文法単位体で語、文、文章の段階を連続してみるならば、語の次に文節があり、句があって、その句は文または文章の構成要素となっているから、語、節、句、文、文の集合、文の複合、文章と析出できる。
句、節
2017-02-18 15:00:37 | 日本語文法文章論
文章に句があり節がある。文法論を文論の範疇で述べれば、句と節は主語の要素によって分ける。語と語とが主語の要素を持たないままに関係構成すれば、それは句レベルである。節は語と語とが関係構成して、文のなかにもう一つの文の関係構成を持てば、節となる。言い換えれば、句はそのままで文になることはないが、節はそのままで文になる。この分け方は主語の要素を前提にした文単位の見方であるから、それを文章レベルでとらえる場合はどうなるか。ここに、日本語文法をとらえる主語の現れ方が議論されてきていることがわかる。文に現れない主語が、文章の文のなかにあるというふうに、文章には主語があるとする考え方である。文章は句、節はまた、その形式でもって、文とともに文章の関係構成にあるのが日本語である。文があって、句があって、ときには語だけでもって、文章を作っている。その句には、漢語文法のとらえ方による章句のことがあった。節には文法の主語の要素を見る英語文法などのとらえ方があった。日本語には、そのいずれをも許容する文章構造、文構造によると、句構造、節構造が認められる。
句、節
文章に句があり節がある。文法論を文論の範疇で述べれば、句と節は主語の要素によって分ける。語と語とが主語の要素を持たないままに関係構成すれば、それは句レベルである。節は語と語とが関係......
句、節
2017-02-18 15:00:37 | 日本語文法文章論
文章に句があり節がある。文法論を文論の範疇で述べれば、句と節は主語の要素によって分ける。語と語とが主語の要素を持たないままに関係構成すれば、それは句レベルである。節は語と語とが関係構成して、文のなかにもう一つの文の関係構成を持てば、節となる。言い換えれば、句はそのままで文になることはないが、節はそのままで文になる。この分け方は主語の要素を前提にした文単位の見方であるから、それを文章レベルでとらえる場合はどうなるか。ここに、日本語文法をとらえる主語の現れ方が議論されてきていることがわかる。文に現れない主語が、文章の文のなかにあるというふうに、文章には主語があるとする考え方である。文章は句、節はまた、その形式でもって、文とともに文章の関係構成にあるのが日本語である。文があって、句があって、ときには語だけでもって、文章を作っている。その句には、漢語文法のとらえ方による章句のことがあった。節には文法の主語の要素を見る英語文法などのとらえ方があった。日本語には、そのいずれをも許容する文章構造、文構造によると、句構造、節構造が認められる。