万葉集の訓に、定訓を得ないもの、難訓であるもの、そして解釈によって、その表記とともに揺れがあるものなど、その読みの作業に訓釈の用語をもってとらえる。
訓釈は和歌の解釈にあるかと言えば、そうではなくて、その解釈は歌の読みに基づくので、本文の読み方である。
解釈作業は文学の議論であり、近代文学の解釈作業と異なって、そこに厳密な訓詁を用いたのは、古典文学の表記に日本語を読み込む工夫があったのである。
古事記の訓釈、日本書記における訓釈、万葉集の訓釈、日本霊異記の訓釈、今昔物語の訓釈、経典、典籍など、漢字がまた日本語になる経緯に、その作業が積み重ねられた。
それぞれ文学ジャンルンを超えて日本語の現象に意味分析がくわえられたのである。万葉集の訓釈を説明する一文がある。
http://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_08.html
ジャパンナレッジ > 知識の泉 > 古典への招待 【第8回:万葉集の訓の揺れ】
>訓釈の微妙な違い
改めて言うまでもないことだが、万葉集の歌の読み方は注釈書・学書の類によって千差万別で、どれに従うべきかに迷うことがしばしばである。同じ研究者の書いたものでも、年月を隔てて著した場合、変ってくることが珍しくなく、時には初案のほうが良かったということさえある。この全集本の万葉集でも、新旧二本の間に完訳(完訳日本の古典)本を挟んで、転々と変化している。
本文が同じままでも、解釈の仕方が違うことがあり、また読み方が改められることが多い。その原因の一つとして、拠よった引用例の変更・取捨ということがある。
夏目漱石 門 六の二 より
火鉢(ひばち)
手で掩(おお)う
麗(きれい)
如何(いか)にも
此所(ここ)
高木(たかぎ)
小袖(こそで)
強請(ねだ)られた
跳(は)ね付けた
非道(ひど)い
毛布(ケット)
被(かぶ)る
可笑(おか)しく
外套(がいとう)
拵(こしら)え
薦(こも)
月賦(げっぷ)
に佗(わび)しく
何時(いつ)から
厭(いや)
反(そり)
今日(こんにち)
小舅(こじゅうと)
好(よ)かあない
腮(あご)
埋(う)めた
上眼(うわめ)
私(わたくし)
悪(にく)んで
大分(だいぶ)
好(い)いじゃないか
己(おれ)
訓釈は和歌の解釈にあるかと言えば、そうではなくて、その解釈は歌の読みに基づくので、本文の読み方である。
解釈作業は文学の議論であり、近代文学の解釈作業と異なって、そこに厳密な訓詁を用いたのは、古典文学の表記に日本語を読み込む工夫があったのである。
古事記の訓釈、日本書記における訓釈、万葉集の訓釈、日本霊異記の訓釈、今昔物語の訓釈、経典、典籍など、漢字がまた日本語になる経緯に、その作業が積み重ねられた。
それぞれ文学ジャンルンを超えて日本語の現象に意味分析がくわえられたのである。万葉集の訓釈を説明する一文がある。
http://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_08.html
ジャパンナレッジ > 知識の泉 > 古典への招待 【第8回:万葉集の訓の揺れ】
>訓釈の微妙な違い
改めて言うまでもないことだが、万葉集の歌の読み方は注釈書・学書の類によって千差万別で、どれに従うべきかに迷うことがしばしばである。同じ研究者の書いたものでも、年月を隔てて著した場合、変ってくることが珍しくなく、時には初案のほうが良かったということさえある。この全集本の万葉集でも、新旧二本の間に完訳(完訳日本の古典)本を挟んで、転々と変化している。
本文が同じままでも、解釈の仕方が違うことがあり、また読み方が改められることが多い。その原因の一つとして、拠よった引用例の変更・取捨ということがある。
夏目漱石 門 六の二 より
火鉢(ひばち)
手で掩(おお)う
麗(きれい)
如何(いか)にも
此所(ここ)
高木(たかぎ)
小袖(こそで)
強請(ねだ)られた
跳(は)ね付けた
非道(ひど)い
毛布(ケット)
被(かぶ)る
可笑(おか)しく
外套(がいとう)
拵(こしら)え
薦(こも)
月賦(げっぷ)
に佗(わび)しく
何時(いつ)から
厭(いや)
反(そり)
今日(こんにち)
小舅(こじゅうと)
好(よ)かあない
腮(あご)
埋(う)めた
上眼(うわめ)
私(わたくし)
悪(にく)んで
大分(だいぶ)
好(い)いじゃないか
己(おれ)