古典の日は文化の日と相成って、文化を伝統に捉える。
日本文化は日本文学である、日本文学は日本文化である、この言い回しは、いずれも正しい。
しかし、文化>文学 であって、文学>文化 ではあり得ない というふうになると、先のコピュラ文はいささか異なってくるのだけれど、広く文化があって、文学、造形、芸術などとなるのだろう。
古典の日の制定に源氏物語をゆかりとしたのだから、文化の日とはなんであったか。
1947年、昭和22年までの、明治節、それは天皇の誕生日による休日であったことに加えて、いまも、昭和の日として休日があるので、それとはかかわりなく、この文化の日とは、文化勲章授与式の日であるらしい。
さて、古典文学を古典文化と言ってみたらどうだろう。物語の中のものがたり、物語の祖である源氏物語はまさに日本の文化である。
私説 源氏語り11
2013-09-10 14:02:14 | 源氏語り
>
ものがたりは、物を語ると書くので、物語と書き表すようになってわかりにくい言葉になった。
物とは、なにか、字義は、物とは雑色の牛、物はもと物色の意、拡大して万物の意となる。
さらに、霊的なもの、鬼をもいう、とあり、わが国の物の化という霊的な、識られざるものの意とが含まれている。
モノは、もろもろのもの、物質も精神も、人間の活動を指し示している。
知覚しうるものに、空間を占め、人間の感覚で捉えることが出来る形を持つ対象、
また、具体的な存在から離れた、人間が考えられ得る形を持たない対象、というふうに説明される。
モノは古来、さまざまなものやことの代名詞に使われ、現代語の形式名詞にそのようがある。
ものがたりは、物を語るということであろう、語る内容が人間活動であったのである。
源氏物語では物の怪が登場する。
そういった妖怪めいた語りとされる。精神作用の憑依か。
心理的不安に入り込む心の状態をさし、もがついたというのは病気である。
ということは、物と書いて物質的なモノとは大違いで心理や精神そのものであった。
私説 源氏語り12
2013-09-11 22:54:50 | 源氏語り
>
モノが包括して森羅万象を精神作用と、いまふうに言えば、理性のなすところと、なさぬところとを併せ持った何かである。
ものの哀れなどと、ものか、ことか、わざか、と、時代が下がって学者たちは捉えようとした。
カタルは何か、語りものと、言葉を逆にすると、そこには語られるひとまとまりの、それこそ、言説、テクストか談話かともなる。
語らう、、かたらふ は、古代では男女のいわば、逢瀬にある様子を指したが、一夜を語り明かすことのその時代の言葉であったのだ。
語るは、その語に、話すにとってかわる意味を持つが、話すが放つ、離すことから、それなりに語りが認識される過程もある。
語りは、やはり相互にかわす言葉のことである。
モノ 語りは、実体をもった言葉が行きかうことであった。
そう思うが、物語に過ぎたか。
光る君の物語は主人公が何と対峙したのか、ということを、ときあかすことになる。
源氏語りは、源氏の、もの、かたりである。
私説 源氏語り13
2013-09-13 22:55:56 | 源氏語り
>
私説源氏語りは2006年にブログでかいたものである。当時のものをそのままに再録している。表現不足だけでなく、思い込みのある文章で読みづらいことこの上ない。お許しを願いたい。
光る君の物語
私説・源氏物語 其の二
源氏物語をよむには原本で読むのがいい。
原本といっても活字化された古典文学全集の源氏物語のものでよい。
数冊にわかれていて大部であるが、原文を選べばそれほどでもない。
通行本のものなら、岩波書店、小学館、新潮社、少し古くなって、岩波文庫、朝日新聞社なら、どれでもよい。
日本古典文学大系は新日本古典文学大系、日本古典文学全集は新版が出て、入手はしやすい。
わたしはテキストに日本古典文学大系を選び、対校源氏新釈を用い、評釈源氏物語を好んだ。
読んだだ時期的なこともあったが、演習の授業に、源氏物語評釈を影印本で使ったのがきっかけだった。
ことさら原文だけで読むと言うのでなくて、対訳のついているものをおおいに利用するとよい。
翻訳は、現代語訳と、通釈または口語訳とに分かれるが、文庫本に収められた訳が読みやすくていいだろう。
通釈は意味を通るようにとりあえず翻訳をしていくが、現代語になったものには読みやすくわかりやすく文章を通したものがある。
想像 私説 源氏語り14
2013-09-14 22:09:02 | 源氏語り
>
近代になって与謝野訳が書かれて、現代語訳といわれるが、いささか古いようでもある。
しかし物語の構成を考えるとき、その先駆的役割を果たした。
物語りを3部構成に見たり、2部構成に捉えたりするする。
次いで、読みやすくしたのは、谷崎訳である。
ふたたびみたび、新訳、新新訳と重ねて、難しい文章がこなれた。
そして現代はいくつもの現代語訳が出ている。
村山訳は古典的、円地訳、田辺訳は今風でよいかもしれない、橋本訳は男訳視点の源氏を標榜する。
今泉訳、玉上役は口語を通している、あたらしく訳が試みられている。
さらにコミックにも源氏物語を描いている。
活字から視覚化されたストーリーには印象が随分とちがってしまう。
そもそも絵巻が描かれたりして、文学の想像は豊かに展開してきているので、ビジュアル化はすばらしい伝統だ。
平安貴族の宮廷だけがクローズアップされてしまうので、せっかくの枠に入りきらない空間をもっと味わうことができたらいい。
絵馬小物はそれだけで自然を現わした絵詞がつく筆致である。
場面 私説 源氏語り15
2013-09-15 23:04:47 | 源氏語り
>
解釈をどうするか、注釈書が作られて、苦心をしてきた。
原文をまず、感性を働かせて読んで見るとよい。
歴史、社会、地域、民族、倫理、宗教と、もろもろの背景を考える。
そしてなにより、言語の感覚になる。
言葉が簡単でないむきには、やはり辞書を頼りに読み解くのが一番である。
それにすこし、源氏物語音読論を進める。
物語りを小説のように読めば、多くは黙読をするが、物語であるから、語ってみる。
声を出して、とにかく読んでみるとなるが、音読論は聞きながら場面を想像する、読んでもらうことになる。
物語りの絵巻についてそのうちの1枚が源氏物語をよくあらわしている。
柏木の巻、有名な親子体面が描かれている。
光源氏がわが子を抱き上げている、少し傾くようにして・・・
自分の子ではない、柏木と女三宮の子を自分の子として・・・
源氏物語のむずかしさはこの一場面に象徴される。
親の心 私説 源氏語り16
2013-09-16 16:44:16 | 源氏語り
>
その一場は源氏物語のテーマを表す、筋立てのその一瞬である。
絵の枠に収めきれないかのように絵の作者は主人公を立たせた。
その姿には覗き込むような憂愁が現れているかのようである。
五十日の祝い、膳が画面に並び、喜びにあふれている。
手前の女房は一人顔を扇子で覆い、もうひとりの女房は横顔を見せている。
画面左には、裾だけを見せる、女三宮がいるとされる。
絵巻は優れた筆法である、祝いがほほえましい。
源氏物語は、この絵の場面を解釈するときにすべてが現れてくる。
詞書が添えられている。
絵巻、柏木三には、もともとは4紙から5紙はあったかと推定されている。
現存はその後半と見られている。
物語りのテーマを余すことなく伝える絵に、味わいのある詞である。
このことのこころをしれる女房
のなかにもあらむかしその人と
しらぬこそおこなれとみるひとひと
はあらむかしとやすからすおほせと
御ためのとがならんことはあへなむ
女房のためこそいとおしけれ
などとおぼして
色にも出したまはぬに
原文である物語り通行本文の青表資本にある、ねたし はここには書かれない。
おこ とは、主人公の気持ちを理解しないこととするか、また、自らが真相を知る人を知らないとするか。
通行本文の解釈は説明的になる。
心 私説 源氏語り17
2013-09-17 11:24:13 | 源氏語り
>
このことの意味を知っている、女房の中にもいるだろう。
その人と知らないでいる者こそ愚かなことだとみる人々もいるだろう。
心穏やかにはお思いにならないけれど、自分のとがであるだろうことは、いたしかたない。
女房のためにはかわいそうだが、などとお思いになり
顔色にもお出しにならない。
自身の、とか のこともある、女房のため と思って景色に見せることはできない。
光源氏の不安を表すが、思い合せることがあったのである。
女房 のところ、原文では、女の御ため とあり、特定の人を指すように解釈される。
通行本文の表現には、物語を決定づける
いと何心なく物語りして笑ひたまふ君
口つきなどのうつくしきが
心知らざらむ人はいかがあらむ
なおいとよくたよひたりけり、と見たまふ
たいそう無邪気に何かを言ってお笑いになる赤子の
口つきが見るからにかわいらしく、
この意味を知らない人はどう思うだろう、
やはりよく似かよっているものだとご覧になる。
とか 私説 源氏語り14 → 18
2013-09-18 22:36:57 | 源氏語り
>
物語りが明かすことは、源氏の心情表現に託して、自己の思いの内に、あらわされる。
この場面と表現は見事に再現されたものである。
それは作者か、女房か、それと光源氏だけが知りうるはずのことであったが。
笑っていらっしゃる、文中、きみ となっているが、まみ であろう、そして口つきである
たよひたりける についても、かよひたりける である。
にこやかによく笑い、その顔を見て、よく似ていると思う。
おやたちのこたにあれかしと
なきたまふらむにもみせす人し
れぬかたみはかりをととめおきて
親たちが、せめて子があったなら、と
泣いているだろうに、みせないで、人知れず
形見だけを残して
親の気持ちになって柏木の早生を思いやる
人知れぬ形見 には、複雑な思いが去来する。
死を悼む表現が続く。
嘆き 私説 源氏語り14 → 19
2013-09-19 23:12:25 | 源氏語り
>
さはかりおもひあかりおよすけたり
しみをこころもてうしなひつる
よとあはれにかなしけれは
あれほど気位が高く立派になった
身を自ら失ったことよ、と
哀れで悲しいので
ここで源氏は憎いと思う心を抑えて嘆く。
めさましかりしこころもひきかへしなけかれたまふ
けしからんと思った気持ちも、ひきかえして、お嘆きになる
原文は通行本文で、
うちなかれたまひ
と泣く。
柏木三の絵巻には詞があり、歌を添えている。
物語の通行本文では、歌の前に、女房たちが退出した後、宮に言う場面となる。
小松 私説 源氏語り15 → 20
2013-09-20 14:37:15 | 源氏語り
>
人々すべりかくれたるほどに、宮の御もとにより給ひて
この人をいかがみ給や、かかる人をすててそむきはて
給ひぬべきによにやありける、あな心う、とおどろかし
きこえ給へば、かほうちあがめておはす。
次に、物語で歌が詠まれた場面になる。
たかよにかたねはまきしと
人とはいかかいはねのまつはこたへむ
ここで光源氏は、あはれなり、と、しのび声で言う。
宮は答えることなくひれ伏してしまう。
この歌には本歌がある。
古今和歌集、雑、上、読み人知らず、とある。
あづさゆみ磯辺の小松たが世にか
よろづ世かねてたねをまきけむ
小松は子を示し、光源氏の歌は、松が誕生した赤子と解釈されて祝いの歌にはそぐわないとされる。
日本文化は日本文学である、日本文学は日本文化である、この言い回しは、いずれも正しい。
しかし、文化>文学 であって、文学>文化 ではあり得ない というふうになると、先のコピュラ文はいささか異なってくるのだけれど、広く文化があって、文学、造形、芸術などとなるのだろう。
古典の日の制定に源氏物語をゆかりとしたのだから、文化の日とはなんであったか。
1947年、昭和22年までの、明治節、それは天皇の誕生日による休日であったことに加えて、いまも、昭和の日として休日があるので、それとはかかわりなく、この文化の日とは、文化勲章授与式の日であるらしい。
さて、古典文学を古典文化と言ってみたらどうだろう。物語の中のものがたり、物語の祖である源氏物語はまさに日本の文化である。
私説 源氏語り11
2013-09-10 14:02:14 | 源氏語り
>
ものがたりは、物を語ると書くので、物語と書き表すようになってわかりにくい言葉になった。
物とは、なにか、字義は、物とは雑色の牛、物はもと物色の意、拡大して万物の意となる。
さらに、霊的なもの、鬼をもいう、とあり、わが国の物の化という霊的な、識られざるものの意とが含まれている。
モノは、もろもろのもの、物質も精神も、人間の活動を指し示している。
知覚しうるものに、空間を占め、人間の感覚で捉えることが出来る形を持つ対象、
また、具体的な存在から離れた、人間が考えられ得る形を持たない対象、というふうに説明される。
モノは古来、さまざまなものやことの代名詞に使われ、現代語の形式名詞にそのようがある。
ものがたりは、物を語るということであろう、語る内容が人間活動であったのである。
源氏物語では物の怪が登場する。
そういった妖怪めいた語りとされる。精神作用の憑依か。
心理的不安に入り込む心の状態をさし、もがついたというのは病気である。
ということは、物と書いて物質的なモノとは大違いで心理や精神そのものであった。
私説 源氏語り12
2013-09-11 22:54:50 | 源氏語り
>
モノが包括して森羅万象を精神作用と、いまふうに言えば、理性のなすところと、なさぬところとを併せ持った何かである。
ものの哀れなどと、ものか、ことか、わざか、と、時代が下がって学者たちは捉えようとした。
カタルは何か、語りものと、言葉を逆にすると、そこには語られるひとまとまりの、それこそ、言説、テクストか談話かともなる。
語らう、、かたらふ は、古代では男女のいわば、逢瀬にある様子を指したが、一夜を語り明かすことのその時代の言葉であったのだ。
語るは、その語に、話すにとってかわる意味を持つが、話すが放つ、離すことから、それなりに語りが認識される過程もある。
語りは、やはり相互にかわす言葉のことである。
モノ 語りは、実体をもった言葉が行きかうことであった。
そう思うが、物語に過ぎたか。
光る君の物語は主人公が何と対峙したのか、ということを、ときあかすことになる。
源氏語りは、源氏の、もの、かたりである。
私説 源氏語り13
2013-09-13 22:55:56 | 源氏語り
>
私説源氏語りは2006年にブログでかいたものである。当時のものをそのままに再録している。表現不足だけでなく、思い込みのある文章で読みづらいことこの上ない。お許しを願いたい。
光る君の物語
私説・源氏物語 其の二
源氏物語をよむには原本で読むのがいい。
原本といっても活字化された古典文学全集の源氏物語のものでよい。
数冊にわかれていて大部であるが、原文を選べばそれほどでもない。
通行本のものなら、岩波書店、小学館、新潮社、少し古くなって、岩波文庫、朝日新聞社なら、どれでもよい。
日本古典文学大系は新日本古典文学大系、日本古典文学全集は新版が出て、入手はしやすい。
わたしはテキストに日本古典文学大系を選び、対校源氏新釈を用い、評釈源氏物語を好んだ。
読んだだ時期的なこともあったが、演習の授業に、源氏物語評釈を影印本で使ったのがきっかけだった。
ことさら原文だけで読むと言うのでなくて、対訳のついているものをおおいに利用するとよい。
翻訳は、現代語訳と、通釈または口語訳とに分かれるが、文庫本に収められた訳が読みやすくていいだろう。
通釈は意味を通るようにとりあえず翻訳をしていくが、現代語になったものには読みやすくわかりやすく文章を通したものがある。
想像 私説 源氏語り14
2013-09-14 22:09:02 | 源氏語り
>
近代になって与謝野訳が書かれて、現代語訳といわれるが、いささか古いようでもある。
しかし物語の構成を考えるとき、その先駆的役割を果たした。
物語りを3部構成に見たり、2部構成に捉えたりするする。
次いで、読みやすくしたのは、谷崎訳である。
ふたたびみたび、新訳、新新訳と重ねて、難しい文章がこなれた。
そして現代はいくつもの現代語訳が出ている。
村山訳は古典的、円地訳、田辺訳は今風でよいかもしれない、橋本訳は男訳視点の源氏を標榜する。
今泉訳、玉上役は口語を通している、あたらしく訳が試みられている。
さらにコミックにも源氏物語を描いている。
活字から視覚化されたストーリーには印象が随分とちがってしまう。
そもそも絵巻が描かれたりして、文学の想像は豊かに展開してきているので、ビジュアル化はすばらしい伝統だ。
平安貴族の宮廷だけがクローズアップされてしまうので、せっかくの枠に入りきらない空間をもっと味わうことができたらいい。
絵馬小物はそれだけで自然を現わした絵詞がつく筆致である。
場面 私説 源氏語り15
2013-09-15 23:04:47 | 源氏語り
>
解釈をどうするか、注釈書が作られて、苦心をしてきた。
原文をまず、感性を働かせて読んで見るとよい。
歴史、社会、地域、民族、倫理、宗教と、もろもろの背景を考える。
そしてなにより、言語の感覚になる。
言葉が簡単でないむきには、やはり辞書を頼りに読み解くのが一番である。
それにすこし、源氏物語音読論を進める。
物語りを小説のように読めば、多くは黙読をするが、物語であるから、語ってみる。
声を出して、とにかく読んでみるとなるが、音読論は聞きながら場面を想像する、読んでもらうことになる。
物語りの絵巻についてそのうちの1枚が源氏物語をよくあらわしている。
柏木の巻、有名な親子体面が描かれている。
光源氏がわが子を抱き上げている、少し傾くようにして・・・
自分の子ではない、柏木と女三宮の子を自分の子として・・・
源氏物語のむずかしさはこの一場面に象徴される。
親の心 私説 源氏語り16
2013-09-16 16:44:16 | 源氏語り
>
その一場は源氏物語のテーマを表す、筋立てのその一瞬である。
絵の枠に収めきれないかのように絵の作者は主人公を立たせた。
その姿には覗き込むような憂愁が現れているかのようである。
五十日の祝い、膳が画面に並び、喜びにあふれている。
手前の女房は一人顔を扇子で覆い、もうひとりの女房は横顔を見せている。
画面左には、裾だけを見せる、女三宮がいるとされる。
絵巻は優れた筆法である、祝いがほほえましい。
源氏物語は、この絵の場面を解釈するときにすべてが現れてくる。
詞書が添えられている。
絵巻、柏木三には、もともとは4紙から5紙はあったかと推定されている。
現存はその後半と見られている。
物語りのテーマを余すことなく伝える絵に、味わいのある詞である。
このことのこころをしれる女房
のなかにもあらむかしその人と
しらぬこそおこなれとみるひとひと
はあらむかしとやすからすおほせと
御ためのとがならんことはあへなむ
女房のためこそいとおしけれ
などとおぼして
色にも出したまはぬに
原文である物語り通行本文の青表資本にある、ねたし はここには書かれない。
おこ とは、主人公の気持ちを理解しないこととするか、また、自らが真相を知る人を知らないとするか。
通行本文の解釈は説明的になる。
心 私説 源氏語り17
2013-09-17 11:24:13 | 源氏語り
>
このことの意味を知っている、女房の中にもいるだろう。
その人と知らないでいる者こそ愚かなことだとみる人々もいるだろう。
心穏やかにはお思いにならないけれど、自分のとがであるだろうことは、いたしかたない。
女房のためにはかわいそうだが、などとお思いになり
顔色にもお出しにならない。
自身の、とか のこともある、女房のため と思って景色に見せることはできない。
光源氏の不安を表すが、思い合せることがあったのである。
女房 のところ、原文では、女の御ため とあり、特定の人を指すように解釈される。
通行本文の表現には、物語を決定づける
いと何心なく物語りして笑ひたまふ君
口つきなどのうつくしきが
心知らざらむ人はいかがあらむ
なおいとよくたよひたりけり、と見たまふ
たいそう無邪気に何かを言ってお笑いになる赤子の
口つきが見るからにかわいらしく、
この意味を知らない人はどう思うだろう、
やはりよく似かよっているものだとご覧になる。
とか 私説 源氏語り14 → 18
2013-09-18 22:36:57 | 源氏語り
>
物語りが明かすことは、源氏の心情表現に託して、自己の思いの内に、あらわされる。
この場面と表現は見事に再現されたものである。
それは作者か、女房か、それと光源氏だけが知りうるはずのことであったが。
笑っていらっしゃる、文中、きみ となっているが、まみ であろう、そして口つきである
たよひたりける についても、かよひたりける である。
にこやかによく笑い、その顔を見て、よく似ていると思う。
おやたちのこたにあれかしと
なきたまふらむにもみせす人し
れぬかたみはかりをととめおきて
親たちが、せめて子があったなら、と
泣いているだろうに、みせないで、人知れず
形見だけを残して
親の気持ちになって柏木の早生を思いやる
人知れぬ形見 には、複雑な思いが去来する。
死を悼む表現が続く。
嘆き 私説 源氏語り14 → 19
2013-09-19 23:12:25 | 源氏語り
>
さはかりおもひあかりおよすけたり
しみをこころもてうしなひつる
よとあはれにかなしけれは
あれほど気位が高く立派になった
身を自ら失ったことよ、と
哀れで悲しいので
ここで源氏は憎いと思う心を抑えて嘆く。
めさましかりしこころもひきかへしなけかれたまふ
けしからんと思った気持ちも、ひきかえして、お嘆きになる
原文は通行本文で、
うちなかれたまひ
と泣く。
柏木三の絵巻には詞があり、歌を添えている。
物語の通行本文では、歌の前に、女房たちが退出した後、宮に言う場面となる。
小松 私説 源氏語り15 → 20
2013-09-20 14:37:15 | 源氏語り
>
人々すべりかくれたるほどに、宮の御もとにより給ひて
この人をいかがみ給や、かかる人をすててそむきはて
給ひぬべきによにやありける、あな心う、とおどろかし
きこえ給へば、かほうちあがめておはす。
次に、物語で歌が詠まれた場面になる。
たかよにかたねはまきしと
人とはいかかいはねのまつはこたへむ
ここで光源氏は、あはれなり、と、しのび声で言う。
宮は答えることなくひれ伏してしまう。
この歌には本歌がある。
古今和歌集、雑、上、読み人知らず、とある。
あづさゆみ磯辺の小松たが世にか
よろづ世かねてたねをまきけむ
小松は子を示し、光源氏の歌は、松が誕生した赤子と解釈されて祝いの歌にはそぐわないとされる。