すくせすくせは、ひとそれぞれにということ、そうなってしまったからには、さきをみよと、前でなく先を見ることになるのだが・・・
前世の因縁にある宿世、しゅく 直音表記で、すく となる。
すくせはぜんせにあると考える仏教の因縁の捉え方で、さきの世がなんだかなぁ、国語、日本語に前というものがあったのかどうか。
国語と日本語と、それぞれの問題とするのに、結局は言語のこととなる。国があって、その前の国はどうだったか。日本は、にほん となるべく、にちふぉん であったから、にツほん としたくもなるが、それはそれ、やまと だったのである。
国語のさき、日本国の世には大日本帝国としていたのだから、国語となるまえの国は帝国であったとなって、国があって同じとも見える。国語の前身は意外と近いところだった、のである。
そのさきのよは、じつはやまとのおうこく、王国ではなくて皇国だったのであるが、これに名がない。強いて名乗れば、いにしえに、日本の王これをいたす、とでも言ってみて、やまとのおう、漢字を書いてのことか、しかし、受け取った側は文書記録のことで、ひのもと、まして、やまと、とは読まれず、さきの世のことを誌す歴史書にある名となったのは、発音が日をジツとする時代になってしまったから、さきのよの知らぬところで、にツほん というのは、ジツポン になっていたのである。
※源氏(1001‐14頃)乙女「おのづからすくせすくせに人となり立ちぬればおろかに思ふもなきわざなるを」