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下人

2017-07-01 | 日本語百科


日本大百科全書(ニッポニカ)
下人
げにん
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下人
平安時代以降の隷属民の身分呼称。平安期王朝貴族の下級役人以下庶民一般をさす呼称として用いられた。その場合、かならずしも特定の人に人身的に従属する者をさしてはいなかったが、鎌倉期には売買、相続の対象となる奴隷身分呼称として「所従(しょじゅう)」とともに多く使われるようになる。鎌倉幕府法では「雑人(ぬひぞうにん)」と称し、その所有権をめぐる紛争を調停するためのルールが示されており、同様な法規定は戦国家法(かほう)にもみられる。このような存在は、中世社会にあって飢饉(ききん)時のみならず平常時でも、年貢(ねんぐ)や諸公事(くじ)の重圧やそれに起因した私的債務などによって租税負担者の家族が売られるなどして絶えず生み出された。生活形態は多様であり、家族をなし小規模の自己経営をもつこともあったが、法的保護はなく所有者の恣意(しい)により左右される存在であった。近世になると租税徴収体系が変化したことから、公権力は小農民維持政策をとり、租税負担者の奴隷身分への転落を阻止することになる。また奴隷労働による地主手作(てづくり)経営が衰え、奴隷的存在が減少し、下人とは一般的には期限を限りその労働力を提供する年期奉公人をさすことになるが、辺境地域には奴隷身分としての下人も残存した。
[磯貝富士男]



世界大百科事典
下人
げにん

平安時代中期以降用いられた身分呼称の一つ。奈良時代の(ぬひ)あるいは家人(けにん)に系譜を引くと言われる隷属民。時代により性格は変化し,同時期でも存在形態は一様ではなかった。平安時代においては寺家,貴族,武士,名主(みようしゆ)等に隷属する家内奴隷的存在で,農耕,雑役,軍役等に駆使された。所領田畠や家屋,家畜と同様に譲与,売買,質入れの対象とされたが,所従と異なり土地を給与されることはなかったようである。所従と下人とはともに不自由民で類似した歴史的存在であるが,土地給付の有無に両者の相違点が見いだせる。下人のほうが所従より隷属度が強いと言うことができよう。下人に子が生まれると,その子は母に付けて譲与,売買された。

 鎌倉時代に入っても下人の性格は基本的には変わらない。1233年(天福1)高野山金剛峯寺の所司が備後国大田庄の地頭の非法を訴えた文書によれば,この地頭の代官は〈百姓を駈り集め,昼夜朝夕,相伝譜代の下人の如く,〓候召仕せしむ〉とあるように,一般農民を下人のごとく駆使したという。これを逆に見れば下人というものがいかに人格を無視され,いかに酷使される存在であったかがわかるであろう。このように鎌倉期においても下人の性格はほとんど変わらないが,幕府という新しい武家政権が誕生したことから,幕府法内での不自由民の扱いに,それまでとは異なる特質を見いだすこともできる。まず幕府法にあっては不自由民は〈下人所従〉もしくは〈雑人(ぞうにん)〉の呼称で呼ばれた。どちらも同じ内容であるが,どちらかといえば法的正式名称としては雑人のほうを用いることが多かったようである。このほか隷属民の総称としてはただ〈下人〉とのみ言う場合もあった。その一方で地頭の隷属民を〈地頭所従〉,百姓のそれを〈百姓下人〉と呼んで両者を区別することもある。鎌倉幕府の下では下人は広義には隷属民一般を指し,狭義には百姓の隷属民のみを意味したと言うことができよう。また幕府法では下人所生の子は,男子は父に,女子は母に付く決りで,この点どちらも母に付くとする従来の公家法とは異なりをみせている。なおこうした下人の逃亡や質入れによって,当該下人に対する所有権の争いが起こった場合,幕府法では10年以上過ぎていれば新所有者を合法的所有者として認める方針をとっている。1230-31年(寛喜2-3)の大飢饉では下人を売ったり質入れしたりする者が急増し,そのために下人の帰属をめぐる訴訟が頻発したようである。

 鎌倉末期になると,このような人身売買を罪悪視する傾向が強くなり,同時に荘園制の変質にともなって下人自身の性格にも変化が見られるようになる。すなわちそれまでの下人は主人の屋敷内に居住させられるのが一般であったが,この期になると屋敷外に小屋とわずかな土地を借りたり譲られたりして,零細な農耕経営を行う者が現れてくるのである。室町時代に入ると下人の独立化の傾向は強まり,従来の隷属性の強い下人のほかに,年季を決めて売買される下人が出現した。前者すなわち代々隷属する財産としての下人を譜代奉公人と呼ぶのに対し,この新しく起こった年限付きの下人を年季奉公人と呼んだ。このような年季奉公人の出現は,領主の農民への賦課の基本形態が,賦役労働から現物地代へと変化したことに対応して起こったものと考えられる。しかし一方では譜代の下人が依然として残存し,江戸時代に入っても辺境の農山村を初め,庄屋,名主(なぬし)の下で駆使され続けた下人が少なくない。ただ一般的傾向としてはしだいに解放されて年季奉公人化し,それにつれて下人という呼称もすたれ,江戸末期には下男,下女と呼ばれるようになった。明治時代以降この下男,下女は,資本主義経済の下で賃金労働者としての性格をもつようになるが,人身売買のなごりは明治以後もなお根強く残存した。
[飯田 悠紀子]


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