言文二途 日本語観5
日本語が言文二途であることは言文一意運動を見てその歴史をさかのぼると、それは話しことばの断片と書きことばの記録を対比するようなことになる。漢語を入れて日本語とし和語と対比して記録するならどのような文体が生まれたか。和漢混交文体においてそれが現れるのでまとまった言語資料には平家物語などを思いつく。それはまた鎮魂を謡う口頭表現であったもの文字にして伝えようとした。日本語であるならその資料のままに言文を推測することにもなるが、和文体で書かれたものを言文一致とみる考え方もあるので物語文学や女流日記などに捉えることになる。しかしこれはそのような文体が文学作品のひとつに現われたということであって、書きことばはやはり取り入れた漢文日記があったので、その事実は言語の状況として言文二途である。しかし日本語観としてはどうとらえていたかの意識を探るのは困難でるが、言と文とが日本語であったこと、それはどこからわかるか。
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これは,平安朝の言文二途にわかれなかった時代の文献に見えているかな書きの実績をよりどころとして,帰納的にそれぞれの言葉を書く場合の準則をさだめたものであります。平安朝の言葉に関する限り,これが権威は十分に認められて然るべきのであります ...
>これより以前,奈良朝にもその時代の国語を象徴するかなづかいの存在していたことが帰納的に認められております。学者のいわゆる特殊かなづかいの如きは,ことに顕著なものでありますが,それも,言葉における音韻の識別とその消長を一つにしておりまして,その拘束の力は後代に及んでいないのであります。これが自然の理法であります。
しかしながら,あるいはまた,平安朝のかなづかいは,当代におけるかなの弘通にともなって定着性をもつようになったばかりでなく,この時代のかな文化は遠く後世にその影響を及ぼしているから,それらの点から見て,今においてもなお,この時代のかなづかいは一般の準則として認められる資格をもつという説もあるかも知れません。しかし,平安朝はいかにもかな文学の盛であった時代にはちがいありませんが,それは社会のある階層においてであったといってもよいのであって,一般の社会人は,日記記録体の文章,尺牘往来体の文章あるいは漢詩文などに親しむことが多いというのが当時の実情であったと思われますが,こういう各種文体の対立とわが国字が元来複国字制で,漢字で書いてもよく,かなで書いてもよく,そのかなも平がな片かなのいずれでもよいことになっているのと相まって,かなづかいに定着性を与えるような余裕はなかったことゝ考えられます。むしろそいう次第から,書かれた字面と語られる言葉とは常に遊離した状態におかれたので,それゆえにこそついに言文相わかれることにもなったのであります。鎌倉時代の普通に定家かなづかいといわれている「行阿仮名文字遺」のできた由来をたずね,またその内容をしらべてみましても,平安朝のかなづかいがこういう王朝文学の勢力圏内にある人々の間にすら,その規範の力をもち得なかったことが知られます。
さらにまた,このかなづかいの実体が,江戸時代の国学者の研究によってはじめて明らかにされたことでも,これは裏書きされるのであります。
しかしながら,その江戸時代においても,このかなづかいは,わずかに一部に学者の間に信奉者(実践者)をもっていたに過ぎないし,明治時代に入っては,これが学校の教科にとり入れられて久しきにわたること前に述べた通りでありますが,七十年の歳月を経ているにもかゝわらず,まだまだ,かなづかいは定着性をもつことができず,あいかわらず遊離の状態におかれております。
以上のようないろいろの事実を,とり集めて考えてみますのに,わたくしどもは,現代の言葉をかなで書きあらわす場合の準則というものは,現実には何ももっていないといえると存じます。今までのかなづかいの準則と認められる,平安朝中期ごろまでの実績をよりどころとしたものは,これが言文二途にわかれた後までもずっと関係をもっているといたしましても,それは,文語の系統に属すべきものなのであります。したがって現代においても,文語の範囲では今までのかなづかいを認めてよいと存じますが,口語体のものにおいて,今までのかなづかいによるのは不合理であります。その不合理がいろいろの問題を生んで居ります。口語の世界にあっては,口語それ自身のうちに,かなで書く場合の準則がもとめられるべきものと信じます。それが合理的であります。そこで委員会では,現代社会の実情と要求とに応じまして,今までのかなづかいに対して現代文の口語体のものに適用されるべき新しいかなづかいを制定するのがその当を得たことと考えたのでありますが,この制定に当りまして,準則のよりどころを今にもとめ,現代語の音韻意識によって書きわけることを本体といたしましたことは申すまでもございません。これを現代かなづかいと名づけましたのもこの意味からであります。
慶應義塾大学出版会|月刊 教育と医学|巻頭随筆
www.keio-up.co.jp/kup/kyouiku/zuihitsu/z200801.html
日本語はいまは外国語にならって言文一致のように考えられているが、これも不正確な認識である。日本語はいまだ言文二途の伝統が生きている。話すことばと文章のことばは異なった体系をとっているから、読むのに、欧米の人の経験する以上の困難を ...
>ことばが音声言語と文字言語に分かれるということは知っていても、話すことばのほうが基本的であることはご存知ない知識人が少なくない。話しことばより文字、文章のほうが高尚であるように誤解している人がほとんどである。
日本語はいまは外国語にならって言文一致のように考えられているが、これも不正確な認識である。日本語はいまだ言文二途の伝統が生きている。話すことばと文章のことばは異なった体系をとっているから、読むのに、欧米の人の経験する以上の困難を余儀なくさせられる。読めるようになるには、特別な訓練が必要になるのだが、ここ百年の国語教育はその難題をさけて、文学読者を育ててきた。新聞でも小説は読めるが、社説は読めない読者である。
日本語が言文二途であることは言文一意運動を見てその歴史をさかのぼると、それは話しことばの断片と書きことばの記録を対比するようなことになる。漢語を入れて日本語とし和語と対比して記録するならどのような文体が生まれたか。和漢混交文体においてそれが現れるのでまとまった言語資料には平家物語などを思いつく。それはまた鎮魂を謡う口頭表現であったもの文字にして伝えようとした。日本語であるならその資料のままに言文を推測することにもなるが、和文体で書かれたものを言文一致とみる考え方もあるので物語文学や女流日記などに捉えることになる。しかしこれはそのような文体が文学作品のひとつに現われたということであって、書きことばはやはり取り入れた漢文日記があったので、その事実は言語の状況として言文二途である。しかし日本語観としてはどうとらえていたかの意識を探るのは困難でるが、言と文とが日本語であったこと、それはどこからわかるか。
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これは,平安朝の言文二途にわかれなかった時代の文献に見えているかな書きの実績をよりどころとして,帰納的にそれぞれの言葉を書く場合の準則をさだめたものであります。平安朝の言葉に関する限り,これが権威は十分に認められて然るべきのであります ...
>これより以前,奈良朝にもその時代の国語を象徴するかなづかいの存在していたことが帰納的に認められております。学者のいわゆる特殊かなづかいの如きは,ことに顕著なものでありますが,それも,言葉における音韻の識別とその消長を一つにしておりまして,その拘束の力は後代に及んでいないのであります。これが自然の理法であります。
しかしながら,あるいはまた,平安朝のかなづかいは,当代におけるかなの弘通にともなって定着性をもつようになったばかりでなく,この時代のかな文化は遠く後世にその影響を及ぼしているから,それらの点から見て,今においてもなお,この時代のかなづかいは一般の準則として認められる資格をもつという説もあるかも知れません。しかし,平安朝はいかにもかな文学の盛であった時代にはちがいありませんが,それは社会のある階層においてであったといってもよいのであって,一般の社会人は,日記記録体の文章,尺牘往来体の文章あるいは漢詩文などに親しむことが多いというのが当時の実情であったと思われますが,こういう各種文体の対立とわが国字が元来複国字制で,漢字で書いてもよく,かなで書いてもよく,そのかなも平がな片かなのいずれでもよいことになっているのと相まって,かなづかいに定着性を与えるような余裕はなかったことゝ考えられます。むしろそいう次第から,書かれた字面と語られる言葉とは常に遊離した状態におかれたので,それゆえにこそついに言文相わかれることにもなったのであります。鎌倉時代の普通に定家かなづかいといわれている「行阿仮名文字遺」のできた由来をたずね,またその内容をしらべてみましても,平安朝のかなづかいがこういう王朝文学の勢力圏内にある人々の間にすら,その規範の力をもち得なかったことが知られます。
さらにまた,このかなづかいの実体が,江戸時代の国学者の研究によってはじめて明らかにされたことでも,これは裏書きされるのであります。
しかしながら,その江戸時代においても,このかなづかいは,わずかに一部に学者の間に信奉者(実践者)をもっていたに過ぎないし,明治時代に入っては,これが学校の教科にとり入れられて久しきにわたること前に述べた通りでありますが,七十年の歳月を経ているにもかゝわらず,まだまだ,かなづかいは定着性をもつことができず,あいかわらず遊離の状態におかれております。
以上のようないろいろの事実を,とり集めて考えてみますのに,わたくしどもは,現代の言葉をかなで書きあらわす場合の準則というものは,現実には何ももっていないといえると存じます。今までのかなづかいの準則と認められる,平安朝中期ごろまでの実績をよりどころとしたものは,これが言文二途にわかれた後までもずっと関係をもっているといたしましても,それは,文語の系統に属すべきものなのであります。したがって現代においても,文語の範囲では今までのかなづかいを認めてよいと存じますが,口語体のものにおいて,今までのかなづかいによるのは不合理であります。その不合理がいろいろの問題を生んで居ります。口語の世界にあっては,口語それ自身のうちに,かなで書く場合の準則がもとめられるべきものと信じます。それが合理的であります。そこで委員会では,現代社会の実情と要求とに応じまして,今までのかなづかいに対して現代文の口語体のものに適用されるべき新しいかなづかいを制定するのがその当を得たことと考えたのでありますが,この制定に当りまして,準則のよりどころを今にもとめ,現代語の音韻意識によって書きわけることを本体といたしましたことは申すまでもございません。これを現代かなづかいと名づけましたのもこの意味からであります。
慶應義塾大学出版会|月刊 教育と医学|巻頭随筆
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日本語はいまは外国語にならって言文一致のように考えられているが、これも不正確な認識である。日本語はいまだ言文二途の伝統が生きている。話すことばと文章のことばは異なった体系をとっているから、読むのに、欧米の人の経験する以上の困難を ...
>ことばが音声言語と文字言語に分かれるということは知っていても、話すことばのほうが基本的であることはご存知ない知識人が少なくない。話しことばより文字、文章のほうが高尚であるように誤解している人がほとんどである。
日本語はいまは外国語にならって言文一致のように考えられているが、これも不正確な認識である。日本語はいまだ言文二途の伝統が生きている。話すことばと文章のことばは異なった体系をとっているから、読むのに、欧米の人の経験する以上の困難を余儀なくさせられる。読めるようになるには、特別な訓練が必要になるのだが、ここ百年の国語教育はその難題をさけて、文学読者を育ててきた。新聞でも小説は読めるが、社説は読めない読者である。