日本語を国号、日本の成立を考えるか、ながく日本が明らかにされようとして、神話伝承から説くものではない。その呼称がすでに、にっぽん、にほん、やまと、これを決めることも困難であるから、日本語と書いてみて、やまとご、という読みのことを思わなければならない。ヤマト語は大和朝廷の中央言語であった、そうすると、ニッポン語は大日本帝国の中央言語であった、というような、国号をいかに取りうるか、その政体において内外に、ヤマト、にっぽん、という呼称がみえて、あらわれなければならない。その日本語についても国語という呼称で意識する言語であったのだから、ヤマト語、にほん語、国語という変遷を内的に得て、いま、ふつうに、ニッポン語となる。
日本語とは何かを、言語研究において、言語系統、言語類型で説明があるところは、詳しくはその論によるとして、孤立した系統の、音韻法則などの系統に祖語を設定しての論議は、類縁の言語の特定は難しいということであり、類型におよぶところは語順としてのことである。素朴に、日本語は親、兄弟の言語を見出しがたく、表記法に複雑な体系があることを実感する。したがって、日本語とはなにかを述べることは、それにこたえることは、言語を特定しての議論となるから、それは孤立している。
25年前の議論にしてその後の進展があるものではないから、それを論じてみて、言語内の省察となる。日本語の特色を、ぼくはウナギだ、という会話文から、ウナギ文を唱える奥津敬一郎氏の対照言語による、その日本語の特色は、名詞をコピュラで結ぶ表現がある日本語の、いわゆる名詞文の解明には至らない。僕がウナギだ、と言っているのではないのだから、ぼく、うなぎ、と発話しても、そこにある日本語の特色は、ぼくは、というときの、は にあるのであるから、この言い方が、/ha/でなくて、/wa/となる、その発音のゆえんから解決をしていかなくてはならないのである。その議論は、かつて見えない。
ここで言おうとするのは、は行音の転呼を言うのであるから難しいことを議論するのではない。語中、また語末の音の変化は唇音のこととして説明すると、それで単語の語構成として説明できることである。しかしよく考えれば、発音変化はなぜ起こっているかを、唇音破裂から、その摩擦にあるというだけで、なぜそれが単語に起こるか、言えば、音便のことにも相当する現象で、語構成のことは、文法現象にもかかわるのである。