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日本語文法文章論 インド洋露艦隊見ゆ

2014-10-06 | 日本語文法文章論
現代日本語文法文章論 題材は、タイトルが、インド洋で「露艦隊見ユ」 とある。副題に、マダガスカルで酒場経営、敵情を単身探った祖父  とある。日本経済新聞の文化面、20141006付けである。執筆者は、 赤崎巧一氏である。なお、有料会員サイトであり、著作の全文をこのように言語分析に資料としているので、そのことをお断りするとともに、ここにお礼を申したい。

冒頭の文は、次である。

>戦艦8隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻――。

末尾の文は、つぎである。

>個人で維持するのはなかなか難しいが、伝三郎の生きた証しとして長く保存していきたい。

書き出しの文段は、次のようである。

>戦艦8隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻――。日露戦争さなかの1904年12月29日、アフリカ東岸の島マダガスカルに日本近海を目指すロシアのバルチック艦隊が入港してきた。その艦の数や種類を秘密裏にインドの日本領事館あてに打電した日本人がいた。


末尾の文段は、次のようである。

>祖父の自邸だった白磯は天草地方で洋館と和風建築が一体化した和洋折衷の個人住宅として唯一、現存するものであるらしい。個人で維持するのはなかなか難しいが、伝三郎の生きた証しとして長く保存していきたい。

段落は、次のようである。

>借金背負い故郷後に
 伝三郎が故郷を出たのは焼き物づくりの家業が破産し、3000円もの借金を負ったのがきっかけだ。外国人でにぎわう長崎に向かい、英国の貿易商がフランス人建築家に設計させたという本格的な西洋風ホテルで見習コックに雇われた。ところが月給だけでは焼け石に水で、外国で一旗揚げる決意をした伝三郎は上海を目指すのである。

> 軍部から感謝状
 伝三郎は郵便配達員にまぎれたり、貿易商を装ったりして艦内に入ろうとした。「露艦隊来航秘録」という本のロシア人乗組員の証言によると、伝三郎は乗組員相手に商売をするかたわらで、果敢に情報を収集しようとしていたようだ。ローマ字つづりで情報を打電した直後は「ほんなこて恐(おそろ)しかったぞ」と後年、振り返っている。

>広い住宅は客のため
 望郷の念に駆られ、30年近い海外暮らしを終えて帰郷すると、生まれ育った高浜に和洋折衷の住宅を建てた。洋風の応接間などを備えた広大な住宅を思い切って造ったのは、来客をもてなすためだったらしい。祖父母は北側の3畳間で寝起きし、生活ぶりは質素だった。ぼろぼろの小学校分校を建て直し、教員住宅を新築して村のために尽くしたそうだ。



2014/10/6付
日本経済新聞 

 障害者の国際的なスポーツ競技会がパラリンピックと呼ばれ始めたのは、1964年の東京大会からだ。五輪に続き選手村の中の練習場などで開かれた大会に、この愛称がついた。江戸東京博物館の特別展「東京オリンピックと新幹線」がそのときの様子を伝えている。

 この大会ではパラリンピック本来の意味である車いす競技としてアーチェリー、トラック競走など14種目が開かれ、出場者は21カ国387人にのぼった。バスケットボールで日本は英国に大差で敗れたが、健闘をたたえ合う写真がすがすがしい。視覚障害など車いす以外の競技にも、国内から480人が出て熱戦を演じた。

 大会を裏で支えた活動もあった。通訳では学生や会社員ら156人がボランティアを買って出た。選手村に美容院がなかったので、街まで外国人選手を案内して感謝されたボランティアもいる。大会運営の一助にと全国のバーには募金箱「善意の箱」が置かれ、約330万円が集まった。助け合いの精神が随所にみられた。

 障害があっても、全力で克服する。それを社会が応援する。64年は戦災から復興した日本を世界に示すとともに、障害をハンディとしない国へ一歩を踏み出した年でもあった。この半世紀で障害者福祉はどこまで進んだだろうか。2020年東京五輪・パラリンピックが6年後に迫る。恥ずかしくない姿を世界に見せたい。



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