怨霊思想 古典に見る病名史1
物の怪と怨霊は平安時代に人々を恐れさせた。怨霊は陰陽道によって広まった。物の怪の記事は天長7年、830年に日本後紀にある。朝廷で陰陽師が祈祷をしてなだめるよう祈願する。続日本後紀を完成させた藤原良房よしふさ と、春済善縄はるずみのよしただ の影響が大きい、春澄は深く陰陽道を信じていたと病が語る日本史では述べている。御霊会ごりょうえ が行われた。朝廷では貞観じょうがん5年、863年に御霊会が行われている。
菅原道真すがわらみちざね は、延喜えんぎ3年、903年に大宰府で亡くなった。学者出身の右大臣にまでなった道真は大宰府に左遷されるという事件が起きる。左大臣藤原時平の讒言ざんげん による。そのため、悲憤慷慨した道長の祟りが都に及び、藤原時平は延喜9年、909年に39歳で怨霊のせいによって亡くなったと人々に言われた。
物の怪は、ものの気とする言葉であったが、災いを起こして死に至らしめるため、怪と書かれた。物の怪も怨霊と結びついてとらえられたようだが、加持祈祷をして退治しようとした。道長が談話中に胸病発作を起こして苦しんだときに僧たちが加持祈祷をして霊気がほかに移って治ったというようなことである。よりまし、と呼ばれる、物の怪が移る女性がいた。乗り移るとその口を借りて怨霊の正体を知るわけである。
物の怪が怨霊の祟りであるとすると、物の怪そのものが病名となるかどうか、疑わしいが、その原因がわからぬままに病状があるわけだから、なんらかの病気であろうか。
物の怪と怨霊は平安時代に人々を恐れさせた。怨霊は陰陽道によって広まった。物の怪の記事は天長7年、830年に日本後紀にある。朝廷で陰陽師が祈祷をしてなだめるよう祈願する。続日本後紀を完成させた藤原良房よしふさ と、春済善縄はるずみのよしただ の影響が大きい、春澄は深く陰陽道を信じていたと病が語る日本史では述べている。御霊会ごりょうえ が行われた。朝廷では貞観じょうがん5年、863年に御霊会が行われている。
菅原道真すがわらみちざね は、延喜えんぎ3年、903年に大宰府で亡くなった。学者出身の右大臣にまでなった道真は大宰府に左遷されるという事件が起きる。左大臣藤原時平の讒言ざんげん による。そのため、悲憤慷慨した道長の祟りが都に及び、藤原時平は延喜9年、909年に39歳で怨霊のせいによって亡くなったと人々に言われた。
物の怪は、ものの気とする言葉であったが、災いを起こして死に至らしめるため、怪と書かれた。物の怪も怨霊と結びついてとらえられたようだが、加持祈祷をして退治しようとした。道長が談話中に胸病発作を起こして苦しんだときに僧たちが加持祈祷をして霊気がほかに移って治ったというようなことである。よりまし、と呼ばれる、物の怪が移る女性がいた。乗り移るとその口を借りて怨霊の正体を知るわけである。
物の怪が怨霊の祟りであるとすると、物の怪そのものが病名となるかどうか、疑わしいが、その原因がわからぬままに病状があるわけだから、なんらかの病気であろうか。