片づけをしていたら、日本語あれこれ事典があった。20140211
日本語学の臨時増刊号である。出版年は、2002年111月、VOL.21 とある。
日本語あれこれ百科をかんがえてみよう。
日本語はいつから使われているか。
日本語は、いつから使われているか。日本民族が使えば日本語である。日本国で使う言語を日本語と規定すれば、その取り決めをした日からである。日本という地域で使われている言語が、その地域で共通する言語であればそれは日本語である。と、言うような、この問いの答えがあってもよい。日本民族はとくに人類学ではその呼び名であるよりは、日本族はなく、大和民族であるようだから、それはまた、大和語であった。日本国は大和国であるのか、共通する言語は和語である、漢語を容れ、外来語を入れて、言語の歴史にその答えは明確である。
それはまた日本国と言う呼称のもとに日本人がいるという議論になって、日本の国名そのものがいつからであるのか、議論の決着がない。にっぽんご、にほんご、このふたつをとりだしても、この語がいつから、このように発音されてきたかと言えないことがらになるのである。
しかし、それではあまりにも現実に使う日本語を考えないことになるので、この地域で同じ言語を使ってきたという観察をもとにさかのぼれば、それを文献記録として日本語を見ることになるが、それも内実、伝統にあるわたしたちの使う言語をそうとらえようとする試みであって、それを整理すれば、答えとはなり得る。それでも記録された言語が日本語なのかどうかとなると、そこには漢語があり、外来語がある言語の実質となる。
日本と表記してこの文字を言葉とし、言語のままに、やまと、にっぽん、にほん、このように呼称することを行ってきたのであるから、日本語と表記していれば、やまとことば、にっぽんご、にほんご、そのいずれかであるとして、日本語そのものを使っているということになる。
日本国語大辞典にある用例を見る。
*参天台五台山記〔1072~73〕一「陳一郎来向。五度渡日本人也。善知日本語」
*幕末御触書集成‐三・安政四年〔1857〕八月二九日「日本和蘭両国全権追加条約〈略〉第三十五条 阿蘭人、日本語又は日本之諸技学び度もの有之時は〈略〉奉行所にて人物を撰み、昼之内に限り館内へ差遣べき事」
*朝野新聞‐明治一一年〔1878〕一〇月二〇日「同港にては日本語は素より英仏の語を解するもの究めて少なく」
*諷誡京わらんべ〔1886〕〈坪内逍遙〉五「いっそ日本語(ニホンゴ)を丸っ切やめて、悉皆英語国にするがいいです」
*東京年中行事〔1911〕〈若月紫蘭〉一月暦「式部長官は今度は之を日本語(ニホンゴ)に訳して奏上する」
ここに見る日本語の語例は11世紀、19世紀とそれ以降とかけ離れている。これによって分かることは、日本に渡リ来る人、また、阿蘭人など、日本語を唱える例は他の言語とのかかわりで言うようである。明治初期以降には、これはルビ付きの例であろう、ニホンゴ、と見えるようである。日本語はいつから使われていたか、という問いに対する答えは、このように言語を対比しての日本語と呼ぶ意識にあるのが、それを使っている、それが日本語であるという実態にふさわしい。
これ以後、日本はその表記を用いて日本語とし、対外的な意識から、どのようにわたしたちの意識に日本語としてきたのであろう。日本語はいつから使われたか、と問いかけるなら、その対外日本語をどうとらえているかということが、答えのヒントにもなり、事実、日本語を知らないようならば、それを意識しないなら、いまだに日本語を使っていないというのは、あまりにも時代にずれたことと言わざるを得ないが、これはまた、そう古い時代のことではなくなる。
嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航。
3月3日(3月31日)、日米和親条約が結ばれ、下田と箱館を開港し、
8月には日英和親条約が、
12月には日露和親条約がそれぞれ締結。
安政4年(1858)年 日米修好通商条約を締結
日本民族と語の検索をすれば、次のようにまず、ヒットする。
ウイキペディアより。
>大和民族(やまとみんぞく)は、日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。しばしば日本民族や和人(わじん)とも呼ばれる。
同じ意味で、日本人という単語も用いられるが、国内の少数民族や海外からの移民を含めた日本国籍の所有者全体を含むこともあり、曖昧さが存在することため、特に厳密に民族を指す場合には大和民族、日本民族という言葉が用いられる。
日本語学の臨時増刊号である。出版年は、2002年111月、VOL.21 とある。
日本語あれこれ百科をかんがえてみよう。
日本語はいつから使われているか。
日本語は、いつから使われているか。日本民族が使えば日本語である。日本国で使う言語を日本語と規定すれば、その取り決めをした日からである。日本という地域で使われている言語が、その地域で共通する言語であればそれは日本語である。と、言うような、この問いの答えがあってもよい。日本民族はとくに人類学ではその呼び名であるよりは、日本族はなく、大和民族であるようだから、それはまた、大和語であった。日本国は大和国であるのか、共通する言語は和語である、漢語を容れ、外来語を入れて、言語の歴史にその答えは明確である。
それはまた日本国と言う呼称のもとに日本人がいるという議論になって、日本の国名そのものがいつからであるのか、議論の決着がない。にっぽんご、にほんご、このふたつをとりだしても、この語がいつから、このように発音されてきたかと言えないことがらになるのである。
しかし、それではあまりにも現実に使う日本語を考えないことになるので、この地域で同じ言語を使ってきたという観察をもとにさかのぼれば、それを文献記録として日本語を見ることになるが、それも内実、伝統にあるわたしたちの使う言語をそうとらえようとする試みであって、それを整理すれば、答えとはなり得る。それでも記録された言語が日本語なのかどうかとなると、そこには漢語があり、外来語がある言語の実質となる。
日本と表記してこの文字を言葉とし、言語のままに、やまと、にっぽん、にほん、このように呼称することを行ってきたのであるから、日本語と表記していれば、やまとことば、にっぽんご、にほんご、そのいずれかであるとして、日本語そのものを使っているということになる。
日本国語大辞典にある用例を見る。
*参天台五台山記〔1072~73〕一「陳一郎来向。五度渡日本人也。善知日本語」
*幕末御触書集成‐三・安政四年〔1857〕八月二九日「日本和蘭両国全権追加条約〈略〉第三十五条 阿蘭人、日本語又は日本之諸技学び度もの有之時は〈略〉奉行所にて人物を撰み、昼之内に限り館内へ差遣べき事」
*朝野新聞‐明治一一年〔1878〕一〇月二〇日「同港にては日本語は素より英仏の語を解するもの究めて少なく」
*諷誡京わらんべ〔1886〕〈坪内逍遙〉五「いっそ日本語(ニホンゴ)を丸っ切やめて、悉皆英語国にするがいいです」
*東京年中行事〔1911〕〈若月紫蘭〉一月暦「式部長官は今度は之を日本語(ニホンゴ)に訳して奏上する」
ここに見る日本語の語例は11世紀、19世紀とそれ以降とかけ離れている。これによって分かることは、日本に渡リ来る人、また、阿蘭人など、日本語を唱える例は他の言語とのかかわりで言うようである。明治初期以降には、これはルビ付きの例であろう、ニホンゴ、と見えるようである。日本語はいつから使われていたか、という問いに対する答えは、このように言語を対比しての日本語と呼ぶ意識にあるのが、それを使っている、それが日本語であるという実態にふさわしい。
これ以後、日本はその表記を用いて日本語とし、対外的な意識から、どのようにわたしたちの意識に日本語としてきたのであろう。日本語はいつから使われたか、と問いかけるなら、その対外日本語をどうとらえているかということが、答えのヒントにもなり、事実、日本語を知らないようならば、それを意識しないなら、いまだに日本語を使っていないというのは、あまりにも時代にずれたことと言わざるを得ないが、これはまた、そう古い時代のことではなくなる。
嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航。
3月3日(3月31日)、日米和親条約が結ばれ、下田と箱館を開港し、
8月には日英和親条約が、
12月には日露和親条約がそれぞれ締結。
安政4年(1858)年 日米修好通商条約を締結
日本民族と語の検索をすれば、次のようにまず、ヒットする。
ウイキペディアより。
>大和民族(やまとみんぞく)は、日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。しばしば日本民族や和人(わじん)とも呼ばれる。
同じ意味で、日本人という単語も用いられるが、国内の少数民族や海外からの移民を含めた日本国籍の所有者全体を含むこともあり、曖昧さが存在することため、特に厳密に民族を指す場合には大和民族、日本民族という言葉が用いられる。