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日本語の伝統  日本語観2

2013-07-13 | 現代日本語百科2025
日本語の伝統  日本語観2

現代日本語にあって日本語の伝統を思う。
古代の言霊は受け継がれた。儀式における言葉となった。
どこにか。

延喜式にある祝詞である。
集侍はれる神主・祝部等、諸聞食せと宣る、祈年祭の冒頭である。

その文体は宣命体と言われる。幸わう国の儀式は宣命として、続日本紀には、697年、文武天皇の即位時のものをはじめとする宣命が収録されている。
757年3月25日の孝謙天皇宣命の転写が正倉院文書につたわる。下線は小字右寄せである。

天皇 大命 良末等 大命  衆聞 倍止 宣。

そこに現われたのが日本語の書き方である。

その文体を宣命体といい、その表記法である宣命書きとは、体言用言の語幹を大きな字で書き、助詞助動詞、用言の活用語尾などは、万葉仮名で小字にして書く方法であり、乎、乃、波などを一定して使っている。



世界大百科事典 第2版の解説
せんみょう【宣命】
天皇の命を宣(の)べ聞かせること,またはその文書。詔の一形式。宣命はテニヲハに万葉仮名を用いるなど和文を漢字によって表記したもので,この文体を宣命体ともいう。現存する宣命で最も古いのは,《続日本紀》の文武天皇即位(697年)の宣命で,以後その例は数多い。宣命の起源については,日本古来の和文にあるという見方のほか,漢文の訓読文にはじまるとの説もある。宣命の成立は,実例の残る文武朝よりさかのぼると考えるべきであろう。

世界大百科事典内の宣命の言及
【公式様文書】より
…しかしこれらの規定は隋・唐の制を継受したものであるため,その名称や用字は当時の人々にとってはなじみにくいものであったらしい。現存の史料でみると,天皇の仰せを伝えるのに詔書,勅旨両式以外に宣命という漢字かな交り文のものも用いられ,また名称は同じでも令の規定以外の用法のものがあるなどがそれを示しており,また詔書や太政官符など,煩瑣な手続を要し発給に手間どるものがあった。これらの要素が,やがて公家様文書といわれる日本独自の文書様式を生み出す要因となった。…
【詔】より
…法隆寺金銅薬師像の推古15年(607)の銘に見える〈詔〉は天皇のことばを意味し,《日本書紀》大化元年(645)条に〈巨勢徳太臣,高麗使に詔す〉と見えるのは,詔が天皇のことばを宣べ伝える意味に用いられた例である。やがて令の制定により公文書制度が整えられるに従い,詔も文書として記されるようになり,天皇のことばをそのまま和文で表現する詔すなわち宣命と,中国風の漢文の詔の両様式が成立した。この詔書の書式および作成・施行の手続を定めたのが,大宝・養老公式令の詔書式である。…



宣命 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/宣命‎
宣命(せんみょう)とは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。この文体を宣命体(-たい)、その表記法を宣命書(-がき)、また宣命を読み上げる使者を宣命使(-し)、宣命を記す紙を宣命紙(-し)という。宣命体は、漢字 ...

天皇が宣(の)りたまう大命(おおみこと、命令)の意で、本来は口頭で宣布され、それを宣命体で書記した。奈良時代は朝賀・即位・改元・立后・立太子などの儀式に用いられ、平安時代以降は任大臣・贈位・神社・山陵などの告文にだけ用いられた。
『続日本紀』には、697年、文武天皇の即位時のものをはじめとする宣命が62編、収録されている。しかし、いずれも原本は現存しない。
天平勝宝9年、757年、3月25日の孝謙天皇宣命の転写が正倉院文書につたわる。筆者注、小字を、大字にした。

天皇 我 大命 良末等 宣 布 大命 乎 衆聞食 倍止 宣。
此 乃 天平勝宝九歳三月廿日 
天 乃 賜 倍留 大 奈留 
瑞 乎 頂 尓 受賜 波理

天皇(すめら)が大命(おほみこと)らまと宣(のりたま)ふ大命を衆(もろもろ)聞食(きこしめさ)へと宣(のる)。
此(こ)の天平勝宝九歳三月廿日
天(あめ)の賜(たま)へる大(おほい)なる
瑞(しるし)を頂(いただき)に受賜(うけたま)はり


宣命・祝詞などの文体を宣命体といい、その表記法である宣命書とは、体言・用言の語幹を大きな字で書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは、一字一音の万葉仮名で小さく右に寄せて書く方法である。「を」には「乎」、「の」には「乃」、「は」には「波」などを一定して使っている。
宣命書は、「漢字万葉仮名交じり文」と言えるが、その万葉仮名を平仮名に変えると、「漢字仮名交じり文」とほぼ同じになり、これは日本語表記の展開史の上で注目すべき出来事であった。


祝詞 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/祝詞‎
祝詞(のりと)は、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって加護や利益を得んとする文章。通常は神職によって独自の節回しによる朗誦が行われ、文体・措辞・書式などに固有の特徴を持つ。

祝詞と名づけられた文章のもっとも古い例は、『延喜式』巻八に収録する29篇と藤原頼長『台記』別記所収「中臣寿詞」の計30篇である。以上はすくなくとも奈良時代以前にまで遡りうる貴重な文献であり、古代の祝詞の姿を現在に伝える重要な資料である。

祝詞(のりと)の語源は「のりとごと」(宣之言・宣処言・宣呪言)であるとする説が従来もっとも一般的であったといえる。
神職などの奉仕者が祭神に祭祀の意義や目的を奏上する言葉(人間が神に対してみずからの祈願するところや、神を称えるこころを表現するために記した文章)を意味するものであるが(奏上体)、古くは祭祀の場に参集した人々に宣り下される言葉でもあった(宣命体)。「のりと」の「のり」には「宣り聞かせる」という意味が考えられることから、宣命体の祝詞が本義を伝えるものであると考えることもできる。


世界大百科事典 第2版の解説
えんぎしき【延喜式】
養老律令に対する施行細則を集大成した古代法典。905年(延喜5)藤原時平ほか11名の委員によって編纂を開始したが,あまり順調に進せず,ようやく927年(延長5)に至って藤原忠平ほか4名の編纂委員の名によって撰進された。50巻。ただしこの後も修訂事業が続けられ,40年後の967年(康保4)に施行された。本法典の内容は先行の《弘仁式》,およびその改訂増補部分だけを集めた《貞観式》,この両者からそのまま受け継がれた部分がかなり多く,その施行をそれほど急ぐ必要がなかったことと,またこの編纂がむしろ文化事業としての色彩が濃かったことなどがその理由であろう。


延喜式 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/延喜式‎

延喜式
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。
『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。最古の写本には九条家伝来品の東京国立博物館所蔵本(平安時代、10・11世紀)や、大阪府河内長野市天野町の金剛寺所蔵の三巻(巻第十二残巻、巻十四、巻十六、平安時代、12世紀前半)がある。
巻8に祝詞を掲載。巻9・10は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されている。延喜式神名帳に記載があるのは当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされたが、現在では消滅したり不明となっている神社も多い。


世界大百科事典内の延喜式の言及
【漆工芸】より
…平文が蒔絵と組み合わされて復活するのは13世紀以後である。 《延喜式》には平安時代の調度の施工の実際が記される。例えば赤漆の材料には漆と荏油(えのあぶら)が,黒漆塗には漆と掃墨(はきずみ)と布着せ用の貲布(さよみ)が,朱塗には漆と朱沙と貲布と掃墨,小麦などが準備されたことがわかる。…
【延喜格式】より
…《延喜格》は先行の《弘仁格》《貞観格》の両格と併用することを前提として,869年(貞観11)から907年に至る間の詔,勅,太政官符などを官司別に編纂し,これに雑格と臨時格とを付加している。一方《延喜式》は先行の《弘仁式》《貞観式》の式文やその後に改定された施行細則をすべて集大成する形で編纂された。この延喜格式の編纂とならんで,その姉妹法典とも言うべき《延喜儀式》《延喜交替式》の編纂も行われた。…
【神道】より
…祭りの多くは農耕儀礼と結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭りが最も主要なものであった。《神祇令》《延喜式》の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神祇官が行う祭りの詳細が記されている。人々は祭りによって生活にくぎりをつけたが,6月と12月の晦に,半年間の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で新しい生活を開始した。…


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