他山の石をどうとらえてみても、三省堂 大辞林の解説によれば、 他山の石以(もつ)て玉(たま)を攻(おさ)むべし 〔詩経 小雅,鶴鳴「他山之石,可二 以攻一レ 玉」〕を引いて、そこまではいいのだが、それについて、よその山から出た粗悪な石も自分の玉を磨くのに利用できるの意から、となる解釈がある、これがひろまっているのはどうしてか。
それをさらに、粗悪な石が、他人のつまらぬ言行というふうなこととなっては、何をかいわんやである。
おそらく、玉がわからない、石と玉の関係をどう見るかがわからないからだが、もっと言えば、他山をもわからないということなのだろ言う。
なぜか、自分の人格を育てる助けとなりうることにしてしまっているのは、日本語だけであるのか。
詩経の典拠である限り、原文の表現に興味のあるところである。
それで、やっぱり使っていて、どうしても、他山の石とせよ、などと言われると、それを、たまみがきに使えと言っているわけだから、玉に対しての石で、その石がつまらぬものなら、それを以て君主が賢くなるわけがないではないか。
そういう解釈は、ありえない。
日本語のどこで間違ったか、儒教をいれたはずなのに、うむ。
他山の石
三省堂 大辞林
他山の石以(もつ)て玉(たま)を攻(おさ)むべし
〔詩経 小雅,鶴鳴「他山之石,可二 以攻一レ 玉」〕 よその山から出た粗悪な石も自分の玉を磨くのに利用できるの意から,他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなりうることのたとえ。
http://kanbun.info/koji/tazan.html
他山の石:原文・書き下し文・意味 - Web漢文大系
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〔出典〕 『詩経』小雅・鶴鳴
〔解釈〕 よその山から出たつまらない石でも、自分の玉を磨く砥石として役立つ。自分に関係のないよくない出来事や他人の誤った言行でも、それを参考にすれば自分の修養の助けになるということ。
(第二章)
鳴于九皋 聲聞于天
魚在于渚 或潛在淵
鶴樂彼之園 爰有樹檀
其下維穀
它山之石 可以攻玉
http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/tazan.html
http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/kojiseigo.html
>
鶴は深い谷間の沢にいても、その声は天まで届く。
魚は水際に遊ぶが、あるときはまた深く水に潜ってしまう。
私が庭で育てている檀の木もやがて見事に伸びて人目をひくだろう。それが楽しみだ。
その木の下には穀(からたち)などの雑木を植えて支えにする。
雑木も使い方では役にたつ。
よその山で取れた粗悪な石でも、玉を磨くために使うことが出来るということだ。
儒家はこのように解釈している。
・鶴を歌った部分→賢者が野に隠れていてもその名は自ずからあらわれる
・魚を歌った部分→賢者が野に自適するありさま
・庭を歌った部分→明君がいたとしてもそのもとには小人がいないとはいえない
・最後の部分→君主に賢者を迎えることを暗喩している
つまり、この詩は野にある賢者を歌い、その賢者たちを迎えて「他山の石」とすることを、君主にすすめた詩なんだって。(~_~;)
by るうとかルーとかRueとか留とか
すばらしいぺーじですね。
http://rrk.jugem.cc/?day=20160201
(第一章)
鶴鳴于九皐 声聞于野 鶴は九皐に鳴き、声は野に聞す。
魚潜在淵 或在于渚 魚は潜みて淵にあり、あるいは渚にあり。
楽彼之園 爰有樹檀 其下維蘀。 楽しきかな、彼の園、ここに樹の檀なるあり、その下はこれ蘀(タク)。
它山之石 可以為錯 它山の石は、以て錯と為すべし。
それをさらに、粗悪な石が、他人のつまらぬ言行というふうなこととなっては、何をかいわんやである。
おそらく、玉がわからない、石と玉の関係をどう見るかがわからないからだが、もっと言えば、他山をもわからないということなのだろ言う。
なぜか、自分の人格を育てる助けとなりうることにしてしまっているのは、日本語だけであるのか。
詩経の典拠である限り、原文の表現に興味のあるところである。
それで、やっぱり使っていて、どうしても、他山の石とせよ、などと言われると、それを、たまみがきに使えと言っているわけだから、玉に対しての石で、その石がつまらぬものなら、それを以て君主が賢くなるわけがないではないか。
そういう解釈は、ありえない。
日本語のどこで間違ったか、儒教をいれたはずなのに、うむ。
他山の石
三省堂 大辞林
他山の石以(もつ)て玉(たま)を攻(おさ)むべし
〔詩経 小雅,鶴鳴「他山之石,可二 以攻一レ 玉」〕 よその山から出た粗悪な石も自分の玉を磨くのに利用できるの意から,他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなりうることのたとえ。
http://kanbun.info/koji/tazan.html
他山の石:原文・書き下し文・意味 - Web漢文大系
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〔出典〕 『詩経』小雅・鶴鳴
〔解釈〕 よその山から出たつまらない石でも、自分の玉を磨く砥石として役立つ。自分に関係のないよくない出来事や他人の誤った言行でも、それを参考にすれば自分の修養の助けになるということ。
(第二章)
鳴于九皋 聲聞于天
魚在于渚 或潛在淵
鶴樂彼之園 爰有樹檀
其下維穀
它山之石 可以攻玉
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鶴は深い谷間の沢にいても、その声は天まで届く。
魚は水際に遊ぶが、あるときはまた深く水に潜ってしまう。
私が庭で育てている檀の木もやがて見事に伸びて人目をひくだろう。それが楽しみだ。
その木の下には穀(からたち)などの雑木を植えて支えにする。
雑木も使い方では役にたつ。
よその山で取れた粗悪な石でも、玉を磨くために使うことが出来るということだ。
儒家はこのように解釈している。
・鶴を歌った部分→賢者が野に隠れていてもその名は自ずからあらわれる
・魚を歌った部分→賢者が野に自適するありさま
・庭を歌った部分→明君がいたとしてもそのもとには小人がいないとはいえない
・最後の部分→君主に賢者を迎えることを暗喩している
つまり、この詩は野にある賢者を歌い、その賢者たちを迎えて「他山の石」とすることを、君主にすすめた詩なんだって。(~_~;)
by るうとかルーとかRueとか留とか
すばらしいぺーじですね。
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(第一章)
鶴鳴于九皐 声聞于野 鶴は九皐に鳴き、声は野に聞す。
魚潜在淵 或在于渚 魚は潜みて淵にあり、あるいは渚にあり。
楽彼之園 爰有樹檀 其下維蘀。 楽しきかな、彼の園、ここに樹の檀なるあり、その下はこれ蘀(タク)。
它山之石 可以為錯 它山の石は、以て錯と為すべし。