日本国憲法を口語化するとはどういうことだったのか。日本憲法を歴史上、画期として一つは近代国家の成立に、二つは民主主義国家の出発に持つ。それぞれに日本国を進めてきた。その意味するところ、憲法を披いて見ると一目瞭然である。いまこの憲法の文体を近代日本と現代日本とに分ける展開として見るなら言語の連続に興味をもつ。すなわち文語体から口語体へと変わる。これを象徴として近代語と現代語の転換を見るものである。そこに関与するのは憲法の口語化という動きであった。それをどのような経緯で知ることができるか。国民の国語運動を進めたという安藤正次とカナモジ会のことが関わる。いまその動きを資料の紹介として見てみる。国立国会図書館のサイトに、日本国憲法の誕生としてターニングポイントを上げている。
>憲法制定の経過は、1946(昭和21)年2月13日を「ターニング・ポイント」として、その前後で大きく二つの段階に区分される。前者は、1945(昭和20)年10月、最高司令官が「憲法の自由主義化」を示唆、これをうけて日本政府による明治憲法の調査研究が開始され、翌1946年2月、改正案(憲法改正要綱)が総司令部に提出されるまでの段階である。後者は、2月13日、総司令部が日本側の改正案を拒否し、逆に、自ら作成した原案(GHQ草案)を提示することで、局面が転回し、新たな憲法の制定・公布にまで至る過程である。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/099shoshi.html
サイトの掲載資料と解説の第3章、GHQ草案と日本政府の対応 に、次の説明がある。
>3-25 口語化憲法草案の発表
国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)は、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出した。これが主たる契機となり、1946(昭和21)年4月2日に、GHQの了承、また、閣議の了解を得て、ひらがな口語体によって憲法改正草案を準備することとなった。口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得た。この案を参考として、実質的には、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局次長、渡辺佳英法制局事務官らの手により、4月5日に第一次案が完成した。4月16日には幣原首相が内奏し、法令の口語化はまず憲法について行い、憲法の成立施行後は他の法令にも及ぶことを伝えた。次いで4月17日、憲法改正草案が発表された。
カナモジ会はこの時期に憲法草案にかかわっている。ウイキペディアの解説より。
>カナモジカイは、第二次世界大戦後、三鷹国語研究所とともに、国民の国語運動連盟を結成した。なお、三鷹国語研究所とは、山本有三が三鷹市の自宅にひらき、安藤正次が所長をつとめた研究所である。国民の国語運動連盟の代表には安藤正次がつき、連盟の事務局はカナモジカイに置かれた。連盟は国語国字改革、日本国憲法を含む法令の口語化などをすすめるために運動した(なお、日本国憲法口語化については、国立国会図書館の「日本国憲法の誕生」がある)。
>憲法制定の経過は、1946(昭和21)年2月13日を「ターニング・ポイント」として、その前後で大きく二つの段階に区分される。前者は、1945(昭和20)年10月、最高司令官が「憲法の自由主義化」を示唆、これをうけて日本政府による明治憲法の調査研究が開始され、翌1946年2月、改正案(憲法改正要綱)が総司令部に提出されるまでの段階である。後者は、2月13日、総司令部が日本側の改正案を拒否し、逆に、自ら作成した原案(GHQ草案)を提示することで、局面が転回し、新たな憲法の制定・公布にまで至る過程である。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/099shoshi.html
サイトの掲載資料と解説の第3章、GHQ草案と日本政府の対応 に、次の説明がある。
>3-25 口語化憲法草案の発表
国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)は、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出した。これが主たる契機となり、1946(昭和21)年4月2日に、GHQの了承、また、閣議の了解を得て、ひらがな口語体によって憲法改正草案を準備することとなった。口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得た。この案を参考として、実質的には、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局次長、渡辺佳英法制局事務官らの手により、4月5日に第一次案が完成した。4月16日には幣原首相が内奏し、法令の口語化はまず憲法について行い、憲法の成立施行後は他の法令にも及ぶことを伝えた。次いで4月17日、憲法改正草案が発表された。
カナモジ会はこの時期に憲法草案にかかわっている。ウイキペディアの解説より。
>カナモジカイは、第二次世界大戦後、三鷹国語研究所とともに、国民の国語運動連盟を結成した。なお、三鷹国語研究所とは、山本有三が三鷹市の自宅にひらき、安藤正次が所長をつとめた研究所である。国民の国語運動連盟の代表には安藤正次がつき、連盟の事務局はカナモジカイに置かれた。連盟は国語国字改革、日本国憲法を含む法令の口語化などをすすめるために運動した(なお、日本国憲法口語化については、国立国会図書館の「日本国憲法の誕生」がある)。