あったか、なかったか
日報問題を一言で説明するのはむずかしい。そういう状況にあったのである。そのときの国際情勢と現場のこと、それを報道だけでうのみにする国民として、それがあったか、なかったか、記録はするに違いないから、あったのである。軍隊と国民のことである。そこに事実があって、それをどうこうすることが、いまは問題になっていない。なるのはそれによって政治がいかに行われてきているかということである。そのことが言われているあいだに、世界情勢、軍隊と国益のことは刻々と変化をし続けているから、議論を何のためにしているのかを見極めると、組織にある透明性である。似たことというのは、問題もなにもかも異なるが、文科省あたりのところでくすぶってきた、あまくだる慣習に、その人のパフォーマンスから人事の透明性に端を発して、これはいまだに文部官僚と地方組織で起こっている文書問題としてリークされて、省庁を超えてあたかも政府にあったかのように、連続して見える事実のように報じられ始めている。財務省で地方組織と中央でのやり取りにも、そのようなことが起こっているのは政府と自治体との関係である。国民は政治をそのようなものと受け止めるか、その事実が時日経過とともに結果として現れてそれを評価することになる。日本国民を井の中の蛙にしているのは何か。