文章は 文法での文よりも大きな単位と説明ができる。
大きな単位とは、文の数がいくつか集まって、まとまった思想、話題を表現するものということになる。
その文が複数になる形態を、まとまった、と、とらえるのは、文と文とが完結体を作るものとする見方である。
文法単位に設定して、語、文、文章ととらえられている。
その文章を文の集合体であるとすれば、それが完結するということは、すなわち一つの言語作品を表す場合となる説明もある。
文の連続において、その書き手と読み手とが一致してまとまるとすることは結果において作品のひとまとまりということになるわけである。
いまその分析を文が複数において著わそうとするものが結合しているとすると、そこには中間に位置する文の集合による段落が想定される。文章を一文に於いて成立するとする場合もあるということであるなら、文の集合による段落も一文の段落とすることがあることになる。
語と語が関係して意味内容を一つにもち、さらにその関係を展開して文を構成すれば、それが段落となり、文章となる。
語は文であり、それがまた文章であるとなると、文法の分析には内を基準とすることになるだろう。
世界大百科事典 第2版の解説
ぶんしょう【文章】
一つの文(センテンス)またはある脈絡をもって二つ以上の文の連続したものが,一つの完結体として前後から切り離して取り上げられるとき,これを文章という。文もそれ自体完結したものではあるが,文章の脈絡の中においては,低次の部分をなすにすぎない。長い文章では,いくつかの文が部分的にまとまって段落をなすのが普通で,小さい段落が互いに結合しつつしだいに大きい段落をなして,ついに一つの文章をなす。その各段階の段落も,それ自身文章と見ることもできる。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
文章
ぶんしょう
文がいくつか集まり、かつ、まとまった内容を表すもの。内容のうえで前の文と密接な関係をもつと考えられる文は、そのまま続いて書き継がれ、前の文と隔たりが意識されたとき、次の文は行を改めて書かれる。すなわち、段落がつけられるということであり、これは、書き手がまとまった内容を段落ごとにまとめようとするからである。この、一つの段落にまとめられる、いくつかの文の集まりを一文章というが、よりあいまいに、いくつかの文をまとめて取り上げるときにそれを文章と称したり、文と同意義としたりすることもあるなど文章はことばの単位として厳密なものでないことが多い。これに対して、時枝誠記(ときえだもとき)は、文章を語・文と並ぶ文法上の単位として考えるべきことを主張し、表現者が一つの統一体ととらえた、完結した言語表現を文章と定義した。これによれば、一編の小説は一つの文章であり、のちに続編が書き継がれた場合には、この続編をもあわせたものが一つの文章ということになる。俳句、和歌の一句・一首は、いずれも一つの文章であり、これをまとめた句集・歌集は、編纂(へんさん)者の完結した思想があることにおいて、それぞれ一つの文章ということになる。[山口明穂]
『時枝誠記著『日本文法 口語篇』(1950・岩波書店)』
[参照項目] | 文(ぶん)
世界大百科事典内の文章の言及
【文】より
…日常生活では〈文〉と〈文章〉とをあいまいに使うことが多いが,言語学などでは,英語のsentenceにあたるもの(つまり,文字で書くとすれば句点やピリオド・疑問符・感嘆符で締めくくられるおのおの)を文と呼び,文が(あるいは後述の〈発話〉が)連結して内容のあるまとまりをなしたものを文章(テキスト)と呼んで区別する。文とは何かについては,文法学者の数だけ定義があるといわれるほどで,とりわけ日本の国語学では,ただ定義を論じるのみならず,文の文たるゆえんを問おうとするようないささか哲学的な論議も従来から盛んに行われてきた
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
文(ぶん)
ぶん
文法学上の基本単位。一つのまとまった内容を表し、末尾に特定の文法形式(活用語の終止形や終助詞など)を有し、話しことばでは音の切れ目があり、特殊な音調(疑問文でのしり上がりなど)が加わり、書きことばでは「。」(句点)がつく。日常語では「文」と「文章」とを混同して用いるが、文法学では、文章は一つ以上の文が連なった言語作品をさし、文は文章を構成する下位単位をさす。
文の定義は古来多くの学者によって試みられているが、文と判定されるべきすべての言語形式を説明しうる十全な定義は、まだない。古くからの「主語・述語の備わったもの」式の定義では、主述完備でも文とならないもの(従属節)の存在や、「アッ。」とか「犬!」とかの類(一語文)や「早くいけ」(命令文)など、主述の欠けるものの処理に困る。国語学者の橋本進吉は、文を、内容的にはまとまった思想の表現と規定したうえで、前後に音の切れ目があり、終わりに特殊の音調が加わるという外形的規定を与えた。一方、山田孝雄(よしお)は、「統覚作用による統合」を文成立の条件とした。山田の心理主義的な文成立論は、日本文法学界での長い、陳述・文成立論争の契機となった。その陳述論争を踏まえ、渡辺実は、「統叙」で整えられた叙述内容を言語主体の断定、疑問、訴えなどの「陳述」が包むという重層的な構文的職能の下に文成立を考える方向を示した。
日本での文本質論が早くから文末の切れ続きに注目した文成立論を軸に展開されてきたのは、日本語の文構造上の特徴に深くかかわろう。日本語の文は、概略、事柄を述べる部分、表現主体の判断を述べる部分、受容者への呼びかけの部分が、この順番で並び成立する。たとえば「弘ガ来ルラシイヨ。」という文なら、「弘ガ来ル」という事柄を、話者が「ラシイ」という程度の確かさで判断し、聴者に「ヨ」と呼びかけている文である。こうした各部分を担う文法形式(語)の承接の仕方には一定の規則があり、また、文末となりうる文法形式は限られている。この諸形式の機能と承接、とくに文末を担いうる形式への注目が文論の中心的な課題となっている点は日本の文法学の特色といえる。
なお、生成文法の考え方では、文を一義的には定義せず、一定の文法規則により生成されるものを文とする。また、従来は文法学が直接対象とする最大の単位は文だったが、近年では文よりも大きい範囲を問題にするようになりつつあり、そこから文規定を見直す動きも出てきている。[清水康行]
大きな単位とは、文の数がいくつか集まって、まとまった思想、話題を表現するものということになる。
その文が複数になる形態を、まとまった、と、とらえるのは、文と文とが完結体を作るものとする見方である。
文法単位に設定して、語、文、文章ととらえられている。
その文章を文の集合体であるとすれば、それが完結するということは、すなわち一つの言語作品を表す場合となる説明もある。
文の連続において、その書き手と読み手とが一致してまとまるとすることは結果において作品のひとまとまりということになるわけである。
いまその分析を文が複数において著わそうとするものが結合しているとすると、そこには中間に位置する文の集合による段落が想定される。文章を一文に於いて成立するとする場合もあるということであるなら、文の集合による段落も一文の段落とすることがあることになる。
語と語が関係して意味内容を一つにもち、さらにその関係を展開して文を構成すれば、それが段落となり、文章となる。
語は文であり、それがまた文章であるとなると、文法の分析には内を基準とすることになるだろう。
世界大百科事典 第2版の解説
ぶんしょう【文章】
一つの文(センテンス)またはある脈絡をもって二つ以上の文の連続したものが,一つの完結体として前後から切り離して取り上げられるとき,これを文章という。文もそれ自体完結したものではあるが,文章の脈絡の中においては,低次の部分をなすにすぎない。長い文章では,いくつかの文が部分的にまとまって段落をなすのが普通で,小さい段落が互いに結合しつつしだいに大きい段落をなして,ついに一つの文章をなす。その各段階の段落も,それ自身文章と見ることもできる。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
文章
ぶんしょう
文がいくつか集まり、かつ、まとまった内容を表すもの。内容のうえで前の文と密接な関係をもつと考えられる文は、そのまま続いて書き継がれ、前の文と隔たりが意識されたとき、次の文は行を改めて書かれる。すなわち、段落がつけられるということであり、これは、書き手がまとまった内容を段落ごとにまとめようとするからである。この、一つの段落にまとめられる、いくつかの文の集まりを一文章というが、よりあいまいに、いくつかの文をまとめて取り上げるときにそれを文章と称したり、文と同意義としたりすることもあるなど文章はことばの単位として厳密なものでないことが多い。これに対して、時枝誠記(ときえだもとき)は、文章を語・文と並ぶ文法上の単位として考えるべきことを主張し、表現者が一つの統一体ととらえた、完結した言語表現を文章と定義した。これによれば、一編の小説は一つの文章であり、のちに続編が書き継がれた場合には、この続編をもあわせたものが一つの文章ということになる。俳句、和歌の一句・一首は、いずれも一つの文章であり、これをまとめた句集・歌集は、編纂(へんさん)者の完結した思想があることにおいて、それぞれ一つの文章ということになる。[山口明穂]
『時枝誠記著『日本文法 口語篇』(1950・岩波書店)』
[参照項目] | 文(ぶん)
世界大百科事典内の文章の言及
【文】より
…日常生活では〈文〉と〈文章〉とをあいまいに使うことが多いが,言語学などでは,英語のsentenceにあたるもの(つまり,文字で書くとすれば句点やピリオド・疑問符・感嘆符で締めくくられるおのおの)を文と呼び,文が(あるいは後述の〈発話〉が)連結して内容のあるまとまりをなしたものを文章(テキスト)と呼んで区別する。文とは何かについては,文法学者の数だけ定義があるといわれるほどで,とりわけ日本の国語学では,ただ定義を論じるのみならず,文の文たるゆえんを問おうとするようないささか哲学的な論議も従来から盛んに行われてきた
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
文(ぶん)
ぶん
文法学上の基本単位。一つのまとまった内容を表し、末尾に特定の文法形式(活用語の終止形や終助詞など)を有し、話しことばでは音の切れ目があり、特殊な音調(疑問文でのしり上がりなど)が加わり、書きことばでは「。」(句点)がつく。日常語では「文」と「文章」とを混同して用いるが、文法学では、文章は一つ以上の文が連なった言語作品をさし、文は文章を構成する下位単位をさす。
文の定義は古来多くの学者によって試みられているが、文と判定されるべきすべての言語形式を説明しうる十全な定義は、まだない。古くからの「主語・述語の備わったもの」式の定義では、主述完備でも文とならないもの(従属節)の存在や、「アッ。」とか「犬!」とかの類(一語文)や「早くいけ」(命令文)など、主述の欠けるものの処理に困る。国語学者の橋本進吉は、文を、内容的にはまとまった思想の表現と規定したうえで、前後に音の切れ目があり、終わりに特殊の音調が加わるという外形的規定を与えた。一方、山田孝雄(よしお)は、「統覚作用による統合」を文成立の条件とした。山田の心理主義的な文成立論は、日本文法学界での長い、陳述・文成立論争の契機となった。その陳述論争を踏まえ、渡辺実は、「統叙」で整えられた叙述内容を言語主体の断定、疑問、訴えなどの「陳述」が包むという重層的な構文的職能の下に文成立を考える方向を示した。
日本での文本質論が早くから文末の切れ続きに注目した文成立論を軸に展開されてきたのは、日本語の文構造上の特徴に深くかかわろう。日本語の文は、概略、事柄を述べる部分、表現主体の判断を述べる部分、受容者への呼びかけの部分が、この順番で並び成立する。たとえば「弘ガ来ルラシイヨ。」という文なら、「弘ガ来ル」という事柄を、話者が「ラシイ」という程度の確かさで判断し、聴者に「ヨ」と呼びかけている文である。こうした各部分を担う文法形式(語)の承接の仕方には一定の規則があり、また、文末となりうる文法形式は限られている。この諸形式の機能と承接、とくに文末を担いうる形式への注目が文論の中心的な課題となっている点は日本の文法学の特色といえる。
なお、生成文法の考え方では、文を一義的には定義せず、一定の文法規則により生成されるものを文とする。また、従来は文法学が直接対象とする最大の単位は文だったが、近年では文よりも大きい範囲を問題にするようになりつつあり、そこから文規定を見直す動きも出てきている。[清水康行]