かぶく、傾くと書く。かたむく、となって現代語で用いる。これは、かたぶく、という古語がある。かぶく、かぶき、という語は、そのままに、意味内容をもって、頭を傾けることになった。かぶ、について、頭のこととすると、かぶく、かたぶく、この両語に意味関係がどうなるか。歌、音楽性、舞、舞踊性、伎、技芸、物真似をそれぞれ当て字にする。傾奇と、歌舞妓、語の用例は17世紀にはいってから、かぶき の語がみえて、そのすぐ後に、歌舞を演じる、女歌舞妓として女の例がある。用字は、類聚国史の伊勢斎宮記事に見えるので、8世紀には祭事にあったことになる。しかし、時を経て、江戸時代に吉原で歌舞伎踊りが行われたことが慶長見聞録に見えてその流行をみる。歌舞伎踊りの風俗に、阿国歌舞伎の流行は遊女歌舞伎として禁止されて、若衆歌舞伎によるものとなる。
日本大百科全書(ニッポニカ)
歌舞伎
かぶき
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この「女歌舞伎」は官能本位で遊女も兼ねていたため、「遊女歌舞伎」とも称されるに及び、幕府は風紀上の弊害を恐れて、1629年(寛永6)、音曲を演奏する地方(じかた)を含む女芸人いっさいが公衆の前で舞台に立つことを禁じた。阿国が出現してわずか26年で、それ以後1891年(明治24)新派で「男女合同改良演劇」が行われるまでの262年の間、日本の公認劇場には女優不在が続く。
女歌舞伎禁止によって隆盛をみたのは、若衆(わかしゅ)歌舞伎、すなわち前髪立ちの美少年による歌舞伎であった。すでに女歌舞伎と並行して存在していたものだが、かつて武家・僧侶(そうりょ)が稚児(ちご)猿楽や稚児延年(えんねん)を愛好したことからみれば、むしろこの若衆歌舞伎のほうが伝統的だったともいえよう。女歌舞伎の新鮮さの陰に隠れていたのが急に開花したのであったが、彼らも華美な風俗で官能本位の歌舞を主体とする点では女歌舞伎と大差なく、男色趣味のため社会的弊害はむしろ大きかったので、幕府は1652年(承応1)ふたたび禁令を発した。こうして一時歌舞伎はまったく姿を消す。しかし、すでに1615年(元和1)には京都に7か所の芝居小屋が許可されていたし、1624年(寛永1)には江戸に猿若座が創立されていたので、彼らは幕府に再開許可嘆願を続けた。その結果、1653年3月4日「再御免」となったが、風紀上の弊害を抑えるために二つの条件がつけられた。前髪を切ることと、歌舞を控えて「物真似(ものまね)狂言づくし」をやることである。そこで、前髪を切って月代(さかやき)を剃(そ)った頭にちなんで、これ以後を「野良(野郎)(やろう)歌舞伎」という。