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日本語教育史(21)  ロシアの日本語学

2013-07-14 | 日本語教育の歴史
明治以降ロシアの日本語研究で3人を挙げる。
ひとり目は、エリセーエフ、ふたり目は、コンラッド、三人目はネフスキーである。

日本とロシアの関係は明治維新以降、1904年、1905年の戦争に第2次大戦を経て旧ソ連時代を含め良好な関係ではなかった。その中で日本学者を紹介する。

S.G.エリセーエフ、1889-1975 サンクトペテルブルグの出身、亡命してパリからアメリカにわたる。
1934年にハーバード大学東洋語学部長になり、ハーバード・エンチン・インスティチュート所長について1956年まで務めた。
そのエリセーエフは日本に留学している。
1908年大学に入学、上田万年、藤岡勝二、ケーベルの講義を受講し、次いで大学院を1914年に修了、祖国へ帰る。

代わりに留学してきたのがコンラッドである。
おりしも1917年は革命があった。1920年に脱出し1921年パリに亡命した。32歳である。
フランスで日本語の力量を発揮することになる。

そしてアメリカにわたり、ハーバード大学で職を得る。
1941年から1945年まで日本語教育を行う。米軍語学将校に日本について特訓したのであり、アメリカにおける日本の情報を持つそう元締め的役割をしたとする。
アメリカの日本学、日本語学の学問的基礎を構築した。1957年にパリに戻った。1975年86歳でこの世を去った。

N.I.コンラッド 1891-1970 は、1914年から約3年間、官費留学生として日本で学んだのち、故郷オリヨールの新設大学学長、1922年ペテルブルグ大学、1941年モスクワ大学で科学アカデミーの正会員となり、貢献した。その活躍は旧ソ連邦での日本語学の祖と言えるだろうと、評される。1970年、他界している。

和露大事典、編集責任者
日本文章論、1934年
中国と日本の文学、1935年
標準日本民族語統語論、1937年
古典翻訳、平家物語 方丈記

N.A.ネフスキー 1892-1945? は、民俗学の方面から日本研究を行った。1915年に官費留学生として来日、中山太郎、柳田國男折口信夫らと親交を得た。1919年、小樽高商でロシア語講師となった。日本人妻を迎えた。1922年イ、大阪外国語学校のロシア語教師となった。日本各地を巡り、民俗学調査をおこない、なかでも東北地方の、おしら信仰を調査した。沖縄の宮古島にも居を構えて民俗を調査研究したという。1929年旧ソ連邦に、単独帰国しレニングラード大などで日本語を教えた。5年後に妻子もわたったが、3年も続かぬ間に、ネフスキーは粛清に遭う。1957年には名誉を回復し、1962年イはライフワークの、西夏文献学研究にレーニン賞が贈られた。




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