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九份と101

2014-09-19 | しかじか
九份と101のふたつの数字を見て、ともに観光名所であると知る方は台湾に行ったことのある人だろう。旅行をしていなくても知る方も多い。その地に住む住民は9戸しかなかったから、陸上の交通もも開けないときに、海上輸送の物資の調達にいつも九戸分を調達していたことからそう呼び名がついたという。そこは鉱脈が見つかって3000も4000もの家が並んだという。丘陵地ではない。山岳であるから、とても賑わいを見せるような場所ではなかったが、金山のお蔭で歓楽街となった、急階段にひしめくように茶館あり映画館あり宿がありして栄えたが。鉱脈の命運とともに町は衰えてさびれてしまった。その地が、いままた観光地としてよみがえったのでしられている。そのわけは・・・


この旅行で対照的だったのが九分と101タワーであった。その思いは、ふかまりつつある。

ウイキペディアより。
>九份という地名の由来はいくつかあり、一般的に台湾語で「開墾した土地の持分を9人で分けたもの」の意。または、清朝初期に9世帯しかなく物を買うときにいつも「9つ分」と言っていたことから、ともいう。

>その昔、九份は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代に藤田組によりその最盛期を迎えた。九份の街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめており、路地や石段は当時に造られたものであり、酒家(料理店)などの建物が多数残されている。しかし、第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去られた存在となっていた。

>二・二八事件(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪によりようやく終結した。
1945年に日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継いだ。
当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、中国大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で(精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものであった。人々の不満は、いやが上にも高まっていった。当時の台湾人たちは、「犬去りて、豚来たる(中国語:狗去豬來)」(意味:犬〔日本人〕はうるさくても役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみ)と揶揄した。

>1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画『悲情城市(A City of Sadness)』(侯孝賢監督)のロケ地となったことにより、九份は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が九份を訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1990年代初頭に九份ブームが起こった。

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