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批評空間―時評4

2013-07-29 | 日本語教育私史
週刊日本語教育批評22号―30号 

日本語を教える、ということの、内実は何か。
また自律学習の違和感について、あるいは実践研究の教師について議論をしている。

批評とはその方法があり、文芸時評にはそれなりのスタイルがあったりして、そのうえで外在批評だとか内在批評だとかあるらしい、SF空間には何が当てはまるか。

日本語を教えるというのは、日本語を話せるように教えるとか、日本語を書くことができるように教えるとか、そういうのでいいはずだけれども、どうなんだろう。
いま、発音を教えているとも、文法を教えているとも、とにかく方法はどうであれ、使うことができる日本語を教えているはずであるから、教える場がある、学習者とともにある、それが日本語教育であるし、教育はそういうものだろうと思う。

自律学習は議論の共通認識をどこで図るか、次を見ておこう。
http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No12/04-Umeda.pdf  学習者の自律性を重視した 日本語教育コースにおける教師の役割 。






22-30号


>言語とは教えるものなのか、という思いが自分に中にあるため、「日本語を教えている」と答えることに、違和感を感じてしまうのもまた事実である。
では、何と言えばいいのか。自分の感覚に近い言い方をすれば、「日本語の言語形式を知識として教えている」とか、「言語形式を知識として与えて、それを使って自分を表現することを教えている  第22号


>皆が自己主導型学習をできるようになる必要があるのかという疑問に絡め、自己主導型学習に内在すると思われる資本主義的な論理に関し、考えてみたい。  第24号

>この経験から、私は2つの大きなことを学んだ。1つは役に立ちたい、感謝されたいと思って「学習者のために教えている」と思い込んでいたことが、実は自分のためでもあったということ。これを発見してからは非常に楽になり、いかにそれまで肩に力を入れて教えていたかということに、改めて気づかされた。
2つ目は、考えることへの気づきである。それは、あることについて、それまで徹底的に考えたことがなかったが、恥ずかしながらその時に初めて、自分の職業に対する自己の意識と深く向き合ったことで、思いもよらない自分の考えが表出したことに非常に驚いた。
しかし、今考えると、そうした自分の経験から、教師として「知識を教え、与えること」の限界を打破できたような気がする。   第24号


>だが、その学生が発表し終えた後の私は、その感動を見透かされるのが恥ずかしく、学生の手前、余韻に浸ることも憚られるように感じ、不自然に大きく叩いた拍手とともに、「よく頑張って最後まで読んだ!」と、一人大袈裟に楽しんだ振りをして、その場を凌いだのである。そして、次の発表者に急いで繋いだことで、
泣き出してしまった学生が注目を浴びるのをそらすかのように、すぐに座らせてしまったのである。第25号

>自己主導型学習の「目標設定→計画→実行→評価→・・・」というサイクルは、いわゆるPDCAと呼ばれるサイクルと同様である。PDCAサイクルは、企業経営や生産管理、あるいは発展途上国の開発支援等、現代のあらゆる場面で推奨され、また実行されている。  第25号


>しかし、模範演技が行われること以上に私が違和感を覚えていたのは、模範演技終了後に発せられるキメ台詞的な一言だった。「こうやって導入すれば、どんな学生にも、スパーーーンと入りますから!」  第26号


>つまり、思考によってその感情は言葉になり、その言葉が自分の力になって、自分が置かれた状況をどんどんと切り拓いていく感覚が、そこにあったのだ。
考えることは力になる。その力は希望なのだ。  第26号


>ことばは何のためにあるのだろう。一つ言えるとしたら、それは人に希望を与えるためにあるのではないかと思う。
誰かを傷つけたり、自分の気持ちを偽ったりするためにある訳では決してない。
考えることで、気持ちはことばとなり、そのことばが力となって、希望の光となる。  第27号

>聞き手が当事者ではない場合、インタビューをとおし、聞き手の現実がどのように変わったかを記述する必要はない。
重要なのは、話し手にとっての現実である、しかし、聞き手もまた当事者である場合、話し手にとっての現実に接したことで、
聞き手にとっての現実がどのように変わったかまでを記述する必要がある。
そうすることにより、日本語教育研究におけるライフストーリー・インタビューは、日本語教育実践を「よりよく」する実践研究となる。  第27号


> Eさんはいわゆる日本語世代と呼ばれる台湾人であり、かつて日本が台湾を統治していた時代に、日本教育を受けた経験を持っている。
その際のインタビュー内容は、終戦を機に日本統治が終了し、社会が大きく変化した中で、これまでどのように生きてきたかということについて、Eさんの人生を語ってもらったものであった。 第28号

>デジタル教科書の学校教育への導入は、政府が旗を振っていることもあり、もはや既定の路線とのことであった。
しかし、技術の導入が目的になってしまっては、せっかくの技術も活きてこない。
やはり、何を目指したどのような教育を目指すかが先にあり、それを実現するために技術を用いるべきではないか。 第28号


> 私は、実践を共有するためには、実践者の教育観と実践が行われた社会的文脈に関する説明が不可欠ではないかと考えている。
実践者の教育観がわからなければ、当該の実践が何を目指して行われたかがわからない。
また、実践が行われた社会的文脈がわからなければ、当該の実践がどのような制約のもとに行われたかがわからない。
しかし、実践持ち寄り会においては、利点である「気軽な参加」が教育観と社会的文脈が明確しない実践の紹介につながる。
共有するために実践を紹介する前提として、自身の実践に関する深い省察が必要ではないかと思った。  第30号


>このような生き方は、ある人から見れば始末が悪いのかもしれないが、それでも私は、自分の胸の奥の声に従って行動すること選び、自分で決め、そして、自分の意思によって、それをしていくのだろう。可能性を信じて生きていく人生は、安定とは無縁かもしれない。でもそれが、「自分を生きる」ということではないだろうか。
そのような人生であれば、たとえすべてを全うできずに倒れても悔いはないし、最期に「自分を生きた」と思えたら、私はそれで十分だ。  第30号


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