メーデー
2017-05-01 | 日記
>もう、真夏日に
2006年05月01日06:29
マイ**に集う人々、良い連休でありますように
この日は飛び石とならない、しばしインターバルを置いて
アルバイトに明け暮れることもあろう
粋なはからいをした方もあり、そうでなかったり
メーデー、労働者団結の日とした、1886年5月1日のこと
アメリカ全土の労働組合、各団体が8時間労働制などを要求して、ストとデモを決行した、と
ものの解説によると、その3年後の1989年、エンゲルスらの第2インターナショナル創立大会でこれを記念した、とある
時代に流れを感じ、そこにあらわれるイデオロギーにあるのは、変質したと思える、労働者の生活が変わったのだろう
毎年5月1日を、万国労働者団結の日、と定めた、お祭りならぬ、デモが行われるこの日は、日本の風景だった
あのときは会社の窓から外を眺めてデモのシュプレヒコールを聞いていた
思いは、シゴトを抜けてあの列に加わることができれば、労働の権利を雇用者に訴えるのは気楽であろうに、と、10代の実感だった
自分がシゴトをとってこなければ、稼ぐことは出来ない、今ここにいる自分は働くという観念が違う、あの旗を振って歩く自分とその訴えを聞く経営者が重なって、という具合だ
受験をあきらめたときがあった、あのときは、親の仕事をするかと、これまた気楽な、安易な、しかし青春の始まりだった
家業の後継をめぐって兄たちは国立大学にすすみ、学生生活が終われば、そのまま家を出てしまった
学歴を、へ、とも思わない父親は、高学歴の息子たちに好きにさせたのだろう
そこにぐずぐずと、生来の性格が、と言いたいが、親孝行をしなければならないと、信じ込んでいたので、人生を決める兄たちの残したくじをひきかけた
アルバイトで父親の仕事は中学時代から社会経験とばかり、知っていた
朝早くから、夜遅くまで、仕事に走り回る姿は、敗戦後の身一つで引きあげ、黙々と家庭を支える
かならずしも順調であったわけでない、パイオニアの仕事ぶりは、それまでの父の経験である輸入業から得た才覚での切り盛りだった、家には珍しいプラスティック製品があった
成型加工の仕事は零細企業の操業と知り、18歳の病気によるその後の人生の疾風怒濤には、いろいろとあった
社会の知恵は、その後に、ホンダの車を月に30台売るシステムの業販に携わって、またいろいろとあって
所長との営業方針の違いに、ひとりホンダ営研を去った、ついてくれるはずのなかまが、みんな向こうにいたことを知った
要求する側ではない、要求される側に立つには学歴が必要だった
集約された青春のひとこまは、あっというまのなかに、再び人間関係と理想の職場を求めた、上下のない社会に飛び込みたかった
それから40年近くになる
研究の道に進んで
教師となると、放蕩息子を
親は許してくれた、と思ったが・・・