研修をして、何をどうすべきかを知る。リタイア―をして、さて何をすべきかと、そのひとつに研修会に出かけた。日本語サロン研修会とあって、花車会館3f会議室、2時から4時まで、いま「日本語教育/日本語教師」はいかにあるべきか、と、話しを聞いてきた。講師の資料タイトルには、東海・北陸地区日本語教師研修会とあるから、凡人社は会をどうしているのかなとか、思いながら、講師の先生はよく知る方で、こちらがわかると申し訳ないかな、ま、リタイアの挨拶のつもりで、聴講をしてきた。話しに、出来事に関わった立場に、年表がついて、それがちょうど1979年からの始まりは、年代が重なるものだった。わたしの日本語教育の始まりは1978年からになるが、それからあとには、国語研究所日本語教育センター、文化庁日本語教師研修夏期講座、日本語教育教師養成、言語教育のコンピュータ利用、地域の日本語ボランティア、日本語学校、日本語教師資格と、話題にかかわるところ、役所サイドの話に、いわく、日本語教育の政策に及ぶ。実践と教育、研究機関に職を得てきた彼我の違いがある中で、こうしている自分を作ってきてくださったような日本語教育の縁の下の力持ちの方である。
立ち位置が異なるので、いささか、親近感にご好意とご貢献の感謝をもって共通するところ見れば、わたしにおける経歴とその視点が重なるところがって、研究分野こそ異なるものの、社会人経験、教師経験、そして教育と研究の歩みに、公人と私人の開きがある。こうしてみると、日本語教育を実践にとらえるところは同じであろうかと、高見にするわけではないが、年表に逐一にすることができる。敬意を表してるサーチマップから借りて、わたしは次の経歴を載せる。しかしここには、私学奉職をもって要職を誇るところなく、日本語教育関連を割愛しているが、教員のスタートに日本語教師を選んでの思いがすでにあったこと、それはずっとこの履歴に添って隠れているのであるが、1977年に国語研究所日本語教育センター開設のための研究員にならなかったことが影響する。要員は2名であったのに、人事院の採用予算枠カットで1名の採用という憂き目を見たことである。博士後期の在籍2年であったこともあって、人生の岐路を先に言う私人として、国家または公共的な地位を離れた一個人というのは、国家機関には適当な距離を置くことになった。
しかし、その思いも1989年のときに、わたしには止揚また揚棄する。日本語教育の要素は国語国文学を否定しはするが、ともに合一して、捨去られることではなく、保存されてより高い次元にと願ってきたのである。
1978年4月 - 1983年3月
大阪外国語大学留学生別科/外国語学部 非常勤講師
1979年4月 - 1981年3月
1979.4-1981.3 愛知大学文学部助手 国文学科国語学国文学担当
1981年4月 - 1983年3月
1981.4-1983.3 愛知大学文学部講師 国文学科国語学国文学担当
1983年4月 - 1989年3月
1983.4-1989.3 愛知大学文学部助教授 国文学科国語学国文学担当
1989年4月 - 1990年3月
1989.4-1990.3 豊橋技術科学大学工学部助教授 国語国文学及び日本語
1990年4月 - 2000年3月
1990.4‐2000.3 豊橋技術科学大学工学部、大学院工学研究科、
教授 国語国文学および日本語学、応用言語学
2000年4月 - 2013年3月
2000.4-2013.3 愛知淑徳大学コミュニケーション学部
2010年4月 - 現在 同大学 交流文化学部交流文化学科(編成替えによる)
2008年4月 - 現在 同大学大学院 GCC研究科(日本語教育)
上記に加えるならば、そのままを引用すると次のようになる。
一九六六年 昭和四一年 株式会社ユニプラスチックス
一九六八年 昭和四三年 株式会社ホンダ営研
豊橋技術科学大学では留学生担当の日本語教育専門教官および大学院工学研究科担当を兼ねる
愛知淑徳大学ではコミュニケーション研究科に次いで、グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科担当を兼ねる
一九九二年 平成 四年 中國天津大学 客座教授
一九九九年 平成一一年 中國南開大学 教育部奨学金にて研究留学 客員研究員
一九九九年―二〇〇〇年 平成一一年度~平成一二年度科学研究費補助金 基盤研究(C) [申請時 代表]
中國工科系大学におけるマルチメディア語学教育の実験・調査研究
二〇〇一年 平成一三年 中国社会科学院 東方社会哲学国際学術研討会 報告発表 於 北戴河リゾート地
二〇〇二年 平成一四年 中日国交正常化30周年記念 東アジア日本語教育シンポジウム 報告発表 於 天津外国語学院
二〇〇六年 平成一八年 南京師範大学外国語学院 名誉教授
日本語教育
一九七九年 昭和五四年 愛知大学 中國研修生日本語教育プログラム 一年コース担当 [一九八九年まで]
一九八四年八月― 一九八五年二月 中国北京語言学院交換教員 日本語教育専門家
一九八八年 昭和六三年 愛知大学短期大学部留学生別科 カリキュラムデザイン、初級教科書の編纂
一九八九年― 一九九九年まで愛知大学留学生別科非常勤講師 創設にかかわり、日本語教育科目を担当
一九八九年 平成 元年 豊橋技術科学大学 留学生日本語教育科目を担当 日本語教育専門教官を兼ねる
二〇〇〇年 平成一二年 愛知淑徳大学 日本語コミュニケーションコース、日本語教師の養成にかかわる
専攻 : 国語学国文学・日本語学・日本語教育・日本語コミュニケーション論・日本文化論
http://www.bonjinsha.com/wp/wp-content/uploads/2017/12/170127nagoya.pdf
>テーマ:いま「日本語教育/日本語教師」はいかにあるべきか
講 師:柳澤好昭先生(明海大学大学院応用言語学研究科教授)
会 場:花車ビル国際センター駅前 3 階第 2 会議室(名古屋市中村区名駅 5-4-14)
内 容:広く社会そのものが否応なしにグローバル化に向かっています。
この急激な変化の中でわたしたちはどうするべきでしょうか。
「日本語」を教えるということは,コミュニケーションの場において話す,聞く,
書く,読む力を身に付けさせるということでしょうか。
日本語教育の現場は,何をどう考えていくことが求められていくのでしょうか。
今回は日本語教育政策の擁立と具体的な施策に関わられた柳澤好昭先生とともに,
「日本語教育」を通して,或いはその根本に立ち返って考えていきたいと思います。
https://researchmap.jp/read0179643
reserchMap
>
際基督教大学では心理学を学ぶ。高校での英作文指導で,日本人の日本語,翻訳時の発想という問題に気付き,機械翻訳,日本語教育に進む。国立国語研究所の長期研修修了後,教育(日本語教育の内容と方法と評価,教師教育),行政(日本語教育施策,地域支援),研究(日本語教育,教師教育,e-laearning)に関わる。
2010年 - 現在
明海大学大学院応用言語学研究科 教授
2009年 - 現在
明海大学外国語学部日本語学科 教授
2008年4月 - 2010年3月
拓殖大学言語文化研究所 非常勤講師
2008年4月 - 2010年3月
桜美林大学大学院 非常勤講師
2007年4月 - 2009年9月
2006 独立行政法人国立国語研究所日本語教育基盤情報センター センター長
2005年4月 - 2006年3月
独立行政法人国立国語研究所日本語教育部門 日本語教育部門長
2003年4月 - 2007年3月
政策研究大学院大学大学院政策研究科 連携教授
2002年9月 - 2005年3月
政策研究大学院大学大学院政策研究科 客員教授
2001年4月 - 2005年3月
独立行政法人国立国語研究所日本語教育部門 第二領域長
2001年4月 - 2002年7月
政策研究大学院大学大学院政策研究科 講師
2000年4月 - 2001年3月
国立国語研究所日本語教育センター 日本語教育第一研究室長
1997年4月 - 2000年3月
国立国語研究所日本語教育センター日本語教育指導普及部 日本語教育研修室長
1995年10月 - 1997年3月
国立国語研究所日本語教育センター日本語教育指導普及部 日本語教育推進企画研究官
1991年10月 - 1995年9月
国立国語研究所日本語教育センター日本語教育指導普及部 主任研究官
1988年4月 - 1991年9月
文化庁文化部国語課 専門職員(日本語教育)
1985年8月 - 1987年7月
カリフォルニア大学バークレー校東洋言語学部日本語学科 講師
1984年4月 - 1985年3月
学校法人文化学園文化外国語専門学校日本語科 専任講師
1983年4月 - 1984年2月
国立国語研究所日本語教育長期専門研修 研修生
1979年4月 - 1982年3月
城西大学附属城西高等学校英語科 非常勤講師
1978年4月 - 1979年1月
和光証券株式会社京都支店営業部 証券投資課員
立ち位置が異なるので、いささか、親近感にご好意とご貢献の感謝をもって共通するところ見れば、わたしにおける経歴とその視点が重なるところがって、研究分野こそ異なるものの、社会人経験、教師経験、そして教育と研究の歩みに、公人と私人の開きがある。こうしてみると、日本語教育を実践にとらえるところは同じであろうかと、高見にするわけではないが、年表に逐一にすることができる。敬意を表してるサーチマップから借りて、わたしは次の経歴を載せる。しかしここには、私学奉職をもって要職を誇るところなく、日本語教育関連を割愛しているが、教員のスタートに日本語教師を選んでの思いがすでにあったこと、それはずっとこの履歴に添って隠れているのであるが、1977年に国語研究所日本語教育センター開設のための研究員にならなかったことが影響する。要員は2名であったのに、人事院の採用予算枠カットで1名の採用という憂き目を見たことである。博士後期の在籍2年であったこともあって、人生の岐路を先に言う私人として、国家または公共的な地位を離れた一個人というのは、国家機関には適当な距離を置くことになった。
しかし、その思いも1989年のときに、わたしには止揚また揚棄する。日本語教育の要素は国語国文学を否定しはするが、ともに合一して、捨去られることではなく、保存されてより高い次元にと願ってきたのである。
1978年4月 - 1983年3月
大阪外国語大学留学生別科/外国語学部 非常勤講師
1979年4月 - 1981年3月
1979.4-1981.3 愛知大学文学部助手 国文学科国語学国文学担当
1981年4月 - 1983年3月
1981.4-1983.3 愛知大学文学部講師 国文学科国語学国文学担当
1983年4月 - 1989年3月
1983.4-1989.3 愛知大学文学部助教授 国文学科国語学国文学担当
1989年4月 - 1990年3月
1989.4-1990.3 豊橋技術科学大学工学部助教授 国語国文学及び日本語
1990年4月 - 2000年3月
1990.4‐2000.3 豊橋技術科学大学工学部、大学院工学研究科、
教授 国語国文学および日本語学、応用言語学
2000年4月 - 2013年3月
2000.4-2013.3 愛知淑徳大学コミュニケーション学部
2010年4月 - 現在 同大学 交流文化学部交流文化学科(編成替えによる)
2008年4月 - 現在 同大学大学院 GCC研究科(日本語教育)
上記に加えるならば、そのままを引用すると次のようになる。
一九六六年 昭和四一年 株式会社ユニプラスチックス
一九六八年 昭和四三年 株式会社ホンダ営研
豊橋技術科学大学では留学生担当の日本語教育専門教官および大学院工学研究科担当を兼ねる
愛知淑徳大学ではコミュニケーション研究科に次いで、グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科担当を兼ねる
一九九二年 平成 四年 中國天津大学 客座教授
一九九九年 平成一一年 中國南開大学 教育部奨学金にて研究留学 客員研究員
一九九九年―二〇〇〇年 平成一一年度~平成一二年度科学研究費補助金 基盤研究(C) [申請時 代表]
中國工科系大学におけるマルチメディア語学教育の実験・調査研究
二〇〇一年 平成一三年 中国社会科学院 東方社会哲学国際学術研討会 報告発表 於 北戴河リゾート地
二〇〇二年 平成一四年 中日国交正常化30周年記念 東アジア日本語教育シンポジウム 報告発表 於 天津外国語学院
二〇〇六年 平成一八年 南京師範大学外国語学院 名誉教授
日本語教育
一九七九年 昭和五四年 愛知大学 中國研修生日本語教育プログラム 一年コース担当 [一九八九年まで]
一九八四年八月― 一九八五年二月 中国北京語言学院交換教員 日本語教育専門家
一九八八年 昭和六三年 愛知大学短期大学部留学生別科 カリキュラムデザイン、初級教科書の編纂
一九八九年― 一九九九年まで愛知大学留学生別科非常勤講師 創設にかかわり、日本語教育科目を担当
一九八九年 平成 元年 豊橋技術科学大学 留学生日本語教育科目を担当 日本語教育専門教官を兼ねる
二〇〇〇年 平成一二年 愛知淑徳大学 日本語コミュニケーションコース、日本語教師の養成にかかわる
専攻 : 国語学国文学・日本語学・日本語教育・日本語コミュニケーション論・日本文化論
http://www.bonjinsha.com/wp/wp-content/uploads/2017/12/170127nagoya.pdf
>テーマ:いま「日本語教育/日本語教師」はいかにあるべきか
講 師:柳澤好昭先生(明海大学大学院応用言語学研究科教授)
会 場:花車ビル国際センター駅前 3 階第 2 会議室(名古屋市中村区名駅 5-4-14)
内 容:広く社会そのものが否応なしにグローバル化に向かっています。
この急激な変化の中でわたしたちはどうするべきでしょうか。
「日本語」を教えるということは,コミュニケーションの場において話す,聞く,
書く,読む力を身に付けさせるということでしょうか。
日本語教育の現場は,何をどう考えていくことが求められていくのでしょうか。
今回は日本語教育政策の擁立と具体的な施策に関わられた柳澤好昭先生とともに,
「日本語教育」を通して,或いはその根本に立ち返って考えていきたいと思います。
https://researchmap.jp/read0179643
reserchMap
>
際基督教大学では心理学を学ぶ。高校での英作文指導で,日本人の日本語,翻訳時の発想という問題に気付き,機械翻訳,日本語教育に進む。国立国語研究所の長期研修修了後,教育(日本語教育の内容と方法と評価,教師教育),行政(日本語教育施策,地域支援),研究(日本語教育,教師教育,e-laearning)に関わる。
2010年 - 現在
明海大学大学院応用言語学研究科 教授
2009年 - 現在
明海大学外国語学部日本語学科 教授
2008年4月 - 2010年3月
拓殖大学言語文化研究所 非常勤講師
2008年4月 - 2010年3月
桜美林大学大学院 非常勤講師
2007年4月 - 2009年9月
2006 独立行政法人国立国語研究所日本語教育基盤情報センター センター長
2005年4月 - 2006年3月
独立行政法人国立国語研究所日本語教育部門 日本語教育部門長
2003年4月 - 2007年3月
政策研究大学院大学大学院政策研究科 連携教授
2002年9月 - 2005年3月
政策研究大学院大学大学院政策研究科 客員教授
2001年4月 - 2005年3月
独立行政法人国立国語研究所日本語教育部門 第二領域長
2001年4月 - 2002年7月
政策研究大学院大学大学院政策研究科 講師
2000年4月 - 2001年3月
国立国語研究所日本語教育センター 日本語教育第一研究室長
1997年4月 - 2000年3月
国立国語研究所日本語教育センター日本語教育指導普及部 日本語教育研修室長
1995年10月 - 1997年3月
国立国語研究所日本語教育センター日本語教育指導普及部 日本語教育推進企画研究官
1991年10月 - 1995年9月
国立国語研究所日本語教育センター日本語教育指導普及部 主任研究官
1988年4月 - 1991年9月
文化庁文化部国語課 専門職員(日本語教育)
1985年8月 - 1987年7月
カリフォルニア大学バークレー校東洋言語学部日本語学科 講師
1984年4月 - 1985年3月
学校法人文化学園文化外国語専門学校日本語科 専任講師
1983年4月 - 1984年2月
国立国語研究所日本語教育長期専門研修 研修生
1979年4月 - 1982年3月
城西大学附属城西高等学校英語科 非常勤講師
1978年4月 - 1979年1月
和光証券株式会社京都支店営業部 証券投資課員