万葉集に皇族が歌人によって見える。
それは代作であったとしてその営みはあった。
第45番歌の題詞には、かるのみこ、あきののにやどりますときに、とある。
軽皇子は草壁皇子の子であり、後の天武天皇となるが、この歌作のときは十歳と文庫本には注釈する。
安騎の野は、遊猟をして、これも注釈によると、奈良県宇陀郡であり、ときは持統六年冬とある。
短歌の連作、第48番に、ひむがしの のにはかぎろひ たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ の歌がある。
この歌の原文は、 東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡 と書かれている。
この漢字を、読み下す作業を通している。
万葉集の歌の表記は日本語に書き表そうとした古代の工夫が見える。
それを読み解いてきたのである。
訳文をつけて鑑賞をしている全訳の古語学習辞書に、次のように見える。
kobun.weblio.jp › 古語辞典 › 学研全訳古語辞典
>東方の野辺には曙光(しよこう)のさしているのが見え、振り返って見ると、西の空に月が傾いている。
>軽皇子(かるのみこ)(=後の文武(もんむ)天皇)が大和の阿騎野(あきの)で狩りをしたときに、柿本人麻呂が長歌に添えて詠んだ四首の短歌の一つ。雄大な叙景歌ではあるが、阿騎野は軽皇子の亡父草壁皇子(くさかべのみこ)も訪れた所で、他の三首の短歌がいずれも草壁皇子追慕の歌であることから、「かぎろひ」に軽皇子、「月」に草壁皇子を重ねて考えてみると、まったく別の趣も読み取れる。なお、「かぎろひ」を「かげろふ(陽炎)」の意と解する説もある。
軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌
やすみしし わがおほきみ たかてらす ひのみこ
かむながら かむさびせすと ふとしかす みやこをおきて
こもりくの はつせのやまは まきたつ あらやまみちを
いわがね さへきおしなべ さかとりの あさこえまして
たまかぎる ゆふさりくれば みゆきふる あきのおほのに
はたすすき しのをおしなべ くさまくら たびやどりせす
いにしへおもひて
短歌
あきののに やどるたびひと うちなげき いももぬらめもいにしへおもふに
まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみが かたみとぞこし
ひむがしの のにはかぎろひ たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
ひなみしみこの みことのうまなめて みかりたたしし ときはきむかふ
それは代作であったとしてその営みはあった。
第45番歌の題詞には、かるのみこ、あきののにやどりますときに、とある。
軽皇子は草壁皇子の子であり、後の天武天皇となるが、この歌作のときは十歳と文庫本には注釈する。
安騎の野は、遊猟をして、これも注釈によると、奈良県宇陀郡であり、ときは持統六年冬とある。
短歌の連作、第48番に、ひむがしの のにはかぎろひ たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ の歌がある。
この歌の原文は、 東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡 と書かれている。
この漢字を、読み下す作業を通している。
万葉集の歌の表記は日本語に書き表そうとした古代の工夫が見える。
それを読み解いてきたのである。
訳文をつけて鑑賞をしている全訳の古語学習辞書に、次のように見える。
kobun.weblio.jp › 古語辞典 › 学研全訳古語辞典
>東方の野辺には曙光(しよこう)のさしているのが見え、振り返って見ると、西の空に月が傾いている。
>軽皇子(かるのみこ)(=後の文武(もんむ)天皇)が大和の阿騎野(あきの)で狩りをしたときに、柿本人麻呂が長歌に添えて詠んだ四首の短歌の一つ。雄大な叙景歌ではあるが、阿騎野は軽皇子の亡父草壁皇子(くさかべのみこ)も訪れた所で、他の三首の短歌がいずれも草壁皇子追慕の歌であることから、「かぎろひ」に軽皇子、「月」に草壁皇子を重ねて考えてみると、まったく別の趣も読み取れる。なお、「かぎろひ」を「かげろふ(陽炎)」の意と解する説もある。
軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌
やすみしし わがおほきみ たかてらす ひのみこ
かむながら かむさびせすと ふとしかす みやこをおきて
こもりくの はつせのやまは まきたつ あらやまみちを
いわがね さへきおしなべ さかとりの あさこえまして
たまかぎる ゆふさりくれば みゆきふる あきのおほのに
はたすすき しのをおしなべ くさまくら たびやどりせす
いにしへおもひて
短歌
あきののに やどるたびひと うちなげき いももぬらめもいにしへおもふに
まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみが かたみとぞこし
ひむがしの のにはかぎろひ たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
ひなみしみこの みことのうまなめて みかりたたしし ときはきむかふ