空間批評―時評8 50号から55号まで
これまでの空間批評の論点は編集者によって4つにまとめられた。それを時系列にしたがって読み取る。いまの批評は実践研究にある。その一方では、ライフストーリーインタビューが取り上げられてきた。
ライフスト-リーインタビューとは何か。
[PDF]
ライフストーリー・インタビューの可能性 - 椙山女学園大学 学術機関 ...
ir.lib.sugiyama-u.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/.../社01塚田(守).pdf
>近年,ライフストーリー・インタビューの方法論,あるいはその方法論を実践している研究に関する文献が多く出版されている(ベルドー 2003年;ホルスタイン2004年;桜井 2001;桜井編 2006年;桜井・小林編 2005年;山田編 2005年)。本稿は,まず,これらの文献で議論されているライフストーリー・インタビューの方法についてまとめ,なぜライフストーリー・インタビューが可能で,なぜライフストーリー・インタビューという方法に惹かれるのかについて概観する。
>グッドソン(2005年:175頁)は,「人間とは物語る動物なのである。いつも私たちは自分自身の物語を学び直しており,他者や自分自身に対して語ろうと試みている」と述べ,人は自らのストーリーを語りたいという欲求をもっているので,インタビューが可能なのであると指摘している。
>他人に対してきわめて私的な経験を語るというインタビュー調査が可能なのは,人が自己のストーリーを語りたいという欲求があり,他人に理解され,共感されたいという欲求があるからであろう。
>そのインタビューの語り手との相互作用の過程のなかで,語り手が生きた経験を「語られた生」として語り,聞き手は共感し聞くことで,自己の人生について振り返り考える機会になり,ライフストーリー・インタビューをすることに感動と悦びを感じている。まず,「フィールドとしての個人」という考えを提示し,佐藤は,その時までの社会学がアンケート調査を中心とした数量分析が中心になり,「個人が探求の正統なる対象」にならなくなっているという現状を批判している。人間が関係的な存在であることは否定しないが,その関係を「社会」などという抽象的なことばに回収してしまう社会学的認識が問題であると指摘する。そして,社会を重層する関係性の総体であると見なす必要性を述べ,個人もまた複雑で重層的な存在であると見なし,個人というフィールドに焦点を向けるべきであるとしている。
次は批評の方法について述べる。
>自分たちの営みを当事者の視点で描く、つまり、自己言及的な記述にすることを常に心がけているつもりである。だが、その記述が批評となっているかに関しては、甚だ心もとない。自分たちの営みをより深く批判的に省察してこそ、真に批評と成り得るように思う。 50号
>創刊以来、本メルマガでは、次のようなテーマを扱ってきた。
・日本語教育に内在するパターナリズム
・ことばの力
・職業としての日本語教師
・日本語教育における実践研究 50号
>より具体的には、(元)留学生である彼/彼女がライフストーリーの語りをとおし、自らの経験を意味づけ、再構成するプロセスと教師自身の教育観、教育実践が変容していくプロセスがパラレルに描かれる必要があるのではないか。 51号
>当該の文章にある言語教育実践者のあるテーマに関する思考や実践のプロセスが描かれていてこそ読者はそこで提示されている論点をめぐり自身の思考や実践と照らし合わせつつ、議論することが可能になるからである。
繰り返すが、現状では、言語教育実践者が自身の思考と実践のプロセスを公表する場はあまりない。ないならば、創ればいい。このメルマガ自体も、そうした場を創る試みの一つである。 52号
>それでは、「実践の中身を見せあう」ためには、実践の何をことばで切り取る必要があるだろうか。「実践の中身を見せあう」ためには、最低限、次の三点をことばで切り取る必要があるだろう。
1)実践を支える実践者の教育観 どのような実践も実践者が教育実践を行う上で何を大切だと考えているかという教育観に支えられている。(そして、それは、教育目的に反映されるはずである。)
2)実践が行われた社会的文脈 どのような実践も真空の中に存在しているわけではなく、ある機関、共同体、社会の中に存在している。
3)実践が行われたプロセス どのような実践も静態的ではなく、時間の経過とともにその様態が変容する動態的な営みである。 53号
>1)~3)の省察の観点を問いの形にすると、次のようになるだろう。
1)私は実践を行う上で、何を最も大切にしていたか、
学習者にどのようになってほしいかと思っていたか、そして、それは実践を実施する中でどのように変容したか。
2)私の実践は、
どのような機関、共同体、社会の中にどのように埋め込まれていたか。また、学習者は、どのような背景や経緯で当該の実践に参加していたか。
3)私は実践をどのように実施していたか、
実践を実施する中で何をいいと思い、何を足りないと思ったか、そして、それらのいいと思った点や足りないと思った点はどのように発生し、変容したか。 54号
>やはり実践を限定的に共有することは難しい。確かに実践の全体像を把握し、表現することは困難なことである。しかし、最初からあきらめるのではなく、まずは語り始めてみることが大切ではないか。その際、有効なのは、「なぜ」という問いかけである。
55号
これまでの空間批評の論点は編集者によって4つにまとめられた。それを時系列にしたがって読み取る。いまの批評は実践研究にある。その一方では、ライフストーリーインタビューが取り上げられてきた。
ライフスト-リーインタビューとは何か。
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ライフストーリー・インタビューの可能性 - 椙山女学園大学 学術機関 ...
ir.lib.sugiyama-u.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/.../社01塚田(守).pdf
>近年,ライフストーリー・インタビューの方法論,あるいはその方法論を実践している研究に関する文献が多く出版されている(ベルドー 2003年;ホルスタイン2004年;桜井 2001;桜井編 2006年;桜井・小林編 2005年;山田編 2005年)。本稿は,まず,これらの文献で議論されているライフストーリー・インタビューの方法についてまとめ,なぜライフストーリー・インタビューが可能で,なぜライフストーリー・インタビューという方法に惹かれるのかについて概観する。
>グッドソン(2005年:175頁)は,「人間とは物語る動物なのである。いつも私たちは自分自身の物語を学び直しており,他者や自分自身に対して語ろうと試みている」と述べ,人は自らのストーリーを語りたいという欲求をもっているので,インタビューが可能なのであると指摘している。
>他人に対してきわめて私的な経験を語るというインタビュー調査が可能なのは,人が自己のストーリーを語りたいという欲求があり,他人に理解され,共感されたいという欲求があるからであろう。
>そのインタビューの語り手との相互作用の過程のなかで,語り手が生きた経験を「語られた生」として語り,聞き手は共感し聞くことで,自己の人生について振り返り考える機会になり,ライフストーリー・インタビューをすることに感動と悦びを感じている。まず,「フィールドとしての個人」という考えを提示し,佐藤は,その時までの社会学がアンケート調査を中心とした数量分析が中心になり,「個人が探求の正統なる対象」にならなくなっているという現状を批判している。人間が関係的な存在であることは否定しないが,その関係を「社会」などという抽象的なことばに回収してしまう社会学的認識が問題であると指摘する。そして,社会を重層する関係性の総体であると見なす必要性を述べ,個人もまた複雑で重層的な存在であると見なし,個人というフィールドに焦点を向けるべきであるとしている。
次は批評の方法について述べる。
>自分たちの営みを当事者の視点で描く、つまり、自己言及的な記述にすることを常に心がけているつもりである。だが、その記述が批評となっているかに関しては、甚だ心もとない。自分たちの営みをより深く批判的に省察してこそ、真に批評と成り得るように思う。 50号
>創刊以来、本メルマガでは、次のようなテーマを扱ってきた。
・日本語教育に内在するパターナリズム
・ことばの力
・職業としての日本語教師
・日本語教育における実践研究 50号
>より具体的には、(元)留学生である彼/彼女がライフストーリーの語りをとおし、自らの経験を意味づけ、再構成するプロセスと教師自身の教育観、教育実践が変容していくプロセスがパラレルに描かれる必要があるのではないか。 51号
>当該の文章にある言語教育実践者のあるテーマに関する思考や実践のプロセスが描かれていてこそ読者はそこで提示されている論点をめぐり自身の思考や実践と照らし合わせつつ、議論することが可能になるからである。
繰り返すが、現状では、言語教育実践者が自身の思考と実践のプロセスを公表する場はあまりない。ないならば、創ればいい。このメルマガ自体も、そうした場を創る試みの一つである。 52号
>それでは、「実践の中身を見せあう」ためには、実践の何をことばで切り取る必要があるだろうか。「実践の中身を見せあう」ためには、最低限、次の三点をことばで切り取る必要があるだろう。
1)実践を支える実践者の教育観 どのような実践も実践者が教育実践を行う上で何を大切だと考えているかという教育観に支えられている。(そして、それは、教育目的に反映されるはずである。)
2)実践が行われた社会的文脈 どのような実践も真空の中に存在しているわけではなく、ある機関、共同体、社会の中に存在している。
3)実践が行われたプロセス どのような実践も静態的ではなく、時間の経過とともにその様態が変容する動態的な営みである。 53号
>1)~3)の省察の観点を問いの形にすると、次のようになるだろう。
1)私は実践を行う上で、何を最も大切にしていたか、
学習者にどのようになってほしいかと思っていたか、そして、それは実践を実施する中でどのように変容したか。
2)私の実践は、
どのような機関、共同体、社会の中にどのように埋め込まれていたか。また、学習者は、どのような背景や経緯で当該の実践に参加していたか。
3)私は実践をどのように実施していたか、
実践を実施する中で何をいいと思い、何を足りないと思ったか、そして、それらのいいと思った点や足りないと思った点はどのように発生し、変容したか。 54号
>やはり実践を限定的に共有することは難しい。確かに実践の全体像を把握し、表現することは困難なことである。しかし、最初からあきらめるのではなく、まずは語り始めてみることが大切ではないか。その際、有効なのは、「なぜ」という問いかけである。
55号