紅白歌合戦はテレビ中継が昭和28年、1953年から始まっている。紅白の司会は宮田輝、高橋圭三とアナウンサーの名前もなつかしい。昭和31年のころから年末の国民行事となった。次いで司会者が紅組に女性が登場し、昭和32年に水の江滝子、昭和33年には黒柳徹子が勤めている、と紅白のヒストリーが教える。このときから年末の国民的行事はわたしの個人的行事になる。
小学生だった、5年生だろう、その前年は記憶にない、日記をつけ始めたのであるが、この紅白の時間になるとわたしは茶の間を離れてその1年を振り返る日記をひとり、書きつけた。何を書いていたかは覚えていないが、華やかなコマ劇場の騒ぎを横にして歌合戦を楽しむことのできない人のあれこれを綴っていた、そのひとりがわたしであったのだろうが。それから10年を経ても、20年30年と、いまなお個人的行事は続いている。
10歳で目覚めた世の不公平の実感を解決するには何ができるのだろうかと、どうすればよいのかと、自分の胸にかかえ続けることになる。それは紅白の歌番組のときだけではない。少し変わっところを持ち合わせたということになるが、それは年越しの過ごし方にもあらわれた。紅白の歌番組のあいだにあれやこれやと世を観察して、わたしは人々の幸せを念ずるようになるが、番組の終わるころには家族のだんらんに戻り、年越しそばをすする、のも、そのときに芽生えたのは行であった。
それは初日の出を拝むことを自らに、小学生の終わりに何を考えだしたか、それから高校生のある時期までは正月の元旦は、行をしたのである。いや、ただに早起きをして近くにあった六甲山系のはずれ、甲山にのぼった、というだけのことである。正月行事は4時前に起きて2時間をかけて山頂に6時過ぎにたどり着くように歩いたのである。日の出は7時過ぎになる。何を祈っていただろう・・・
>甲山(かぶとやま)は、兵庫県西宮市西北部に位置する、古い火山の痕跡である山。標高、309.2 m。所在地、兵庫県西宮市。
小学生だった、5年生だろう、その前年は記憶にない、日記をつけ始めたのであるが、この紅白の時間になるとわたしは茶の間を離れてその1年を振り返る日記をひとり、書きつけた。何を書いていたかは覚えていないが、華やかなコマ劇場の騒ぎを横にして歌合戦を楽しむことのできない人のあれこれを綴っていた、そのひとりがわたしであったのだろうが。それから10年を経ても、20年30年と、いまなお個人的行事は続いている。
10歳で目覚めた世の不公平の実感を解決するには何ができるのだろうかと、どうすればよいのかと、自分の胸にかかえ続けることになる。それは紅白の歌番組のときだけではない。少し変わっところを持ち合わせたということになるが、それは年越しの過ごし方にもあらわれた。紅白の歌番組のあいだにあれやこれやと世を観察して、わたしは人々の幸せを念ずるようになるが、番組の終わるころには家族のだんらんに戻り、年越しそばをすする、のも、そのときに芽生えたのは行であった。
それは初日の出を拝むことを自らに、小学生の終わりに何を考えだしたか、それから高校生のある時期までは正月の元旦は、行をしたのである。いや、ただに早起きをして近くにあった六甲山系のはずれ、甲山にのぼった、というだけのことである。正月行事は4時前に起きて2時間をかけて山頂に6時過ぎにたどり着くように歩いたのである。日の出は7時過ぎになる。何を祈っていただろう・・・
>甲山(かぶとやま)は、兵庫県西宮市西北部に位置する、古い火山の痕跡である山。標高、309.2 m。所在地、兵庫県西宮市。