1989年の夏、インド旅行に行ったときの写真で、同宿の日本人の学生に撮ってもらった。ヒゲ面でいかにもアジアの浮浪者?である。フィルムはリバーサルでなくて、普通のネガカラーだが、このときから旅にカメラを持つようになった。
ひとりで空港に降りたとき、足がすくんで外に出られなくて、明るくなるまで待った。掃除をしている少年とカタコトの英語で知り合い、インドの旅が始まった。
不思議なことに、日本人の学生がこともあろうに私にくっついて来て(多分私が初めての旅人とは見えなかったのだろう)宿探しや飯屋まで私が世話をした。途中で面倒になって、別行動を取った。帰りの空港で一緒になったとき、カルチャーショックで物言わぬ青年になっていて、悪いことをしたなあと思った。このときの旅では、熱に浮かされた学生の面倒も見た。そもそも私も熱を出して二晩寝込んだのである。旅はひとりで、なるべく日本人がいない宿を探したりした。バラナシーでは「クミコハウス」で日本人が多いところだった。さすがに心もとなくて、日本語を頼るのだった。
ひとりで空港に降りたとき、足がすくんで外に出られなくて、明るくなるまで待った。掃除をしている少年とカタコトの英語で知り合い、インドの旅が始まった。
不思議なことに、日本人の学生がこともあろうに私にくっついて来て(多分私が初めての旅人とは見えなかったのだろう)宿探しや飯屋まで私が世話をした。途中で面倒になって、別行動を取った。帰りの空港で一緒になったとき、カルチャーショックで物言わぬ青年になっていて、悪いことをしたなあと思った。このときの旅では、熱に浮かされた学生の面倒も見た。そもそも私も熱を出して二晩寝込んだのである。旅はひとりで、なるべく日本人がいない宿を探したりした。バラナシーでは「クミコハウス」で日本人が多いところだった。さすがに心もとなくて、日本語を頼るのだった。