南天竺に比丘あらん
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ
上記は親鸞聖人による高僧和讃の中の一節です。「南インドに龍樹菩薩が現れて有無の邪見を論破するであろうと、お釈迦様は仰った。」というようなことでしょう。問題はこの「有無の邪見」ということですが、東本願寺では「ものごとを肯定する『有』とか、否定する『無』とか、そのような誤った考えにこだわる見方」というふうに説明しています。それはその通りですが、実は龍樹自身はもっとラジカルなことを言っていて、「言語による断定はすべて真実から外れている。」というようなことを主張しているのです。
例えば、「鳥が飛んでいる」 という言葉について考えてみましょう。その言葉を発した人は何かについて言い得たつもりで、聞いた方も何かを了解した気分になるかも知れません。しかし、それは気分だけで情報としては実際にはほとんど何も伝わっておりません。スズメが飛んでいたのか、コンドルが飛んでいたのか、もしかしたらハチドリが飛んでいたのかも知れません。まっすぐとんでいたのか、カーブを描きながら飛んでいたのかも分かりません。では、それらの言葉を説明として追加していけば、実際の様子が本当に分かるでしょうか? 日常会話においてはほとんど問題は生じないでしょう。聞き手は自分の経験をもとに感性的なイメージを補っているからです。しかし、聴き手が経験したことのないような景色については、いくら言葉を費やしてもそれをイメージさせるのは不可能です。
以前の記事「知性はデジタル」でコンピューターの内部ではすべて "1" と "0" のデジタル信号だけで処理されているというようなことを述べました。私たちの言語やそれに伴う判断処理はすべてコンピューターで処理可能です。なぜなら私たちの言語そのものがデジタル的だからです。「鳥が飛んでいる」という言葉そのものは、この世界を「鳥が飛んでいる世界」と「鳥が飛んでいない世界」に分節し、二者択一しているだけの機能しか持たないのです。鳥が何であるか、どんなスピードでどちらの方角に富んでいるのかは何にも分からない。
前回記事で述べたように言葉というのはデジタルな信号に過ぎないのです。実際に言葉はすべてコンピューター内では"1" と "0" で構成された信号に置き換えられています。判断もまた"1" と "0" の組み合わせなのです。"1" と "0"は実際は電気的なONとOFFですが、"有"と"無"と言い換えても良いと思います。要するに二者択一的であるということです。つまり言語で運用される知的活動はすべて、二者択一的な信号の組み合わせででしかないということです。言語で表現できるものはすべて有無の見なのです。
言葉は人間社会にとっては必須のものてす。「12月23日に三越前でデートの待ち合わせしよう。」とか「一個300円のまんじゅうを10個買うには3000円必要」だとかいうデジタル的な情報はことばで十分伝えることができます。しかし、龍樹が問題にしているのはこの世界の真理についてであります。最も根本的な問題を有と無の信号の組み合わせによっては処理することはできない。言語化されたものつまりイデオロギーが真実に的中することはない。言語によってものごとを断定してはいけない、というのが中庸の精神であります。