禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

現代版「倩女離魂」

2019-11-10 17:41:07 | 公案
 無門関第35則「倩女離魂」を現代的な視点から論じてみたいと思います。 ( 公案の内容についてはこちらを参照=>「倩女離魂」 )

 科学が進歩して、どんなものでもそのまま遠隔地に移動させることができる瞬間移動装置というものが出来たと仮定します。その機械は発信カプセルと受信カプセルとからなっており、発信カプセルの中のある時点での状態を素粒子単位まで分析し、その情報を受信カプセルに送信して、受信カプセルではその情報に従って、当該時点の送信カプセルの中の状態を素粒子レベルで復元するわけです。
で、例えば送信カプセルに私が入ってその機械を作動させると、送信カプセルの中の私は解析処理で分解されてガスになってしまうが、受信カプセルの中でそっくりそのまま復元されるので、私の姿形はもちろん記憶も性格もなにもかもそのままで移動したことになるというわけです。
 この事態を、私という人間そのものが発信カプセルから受信カプセルに移動したとみなしてよいでしょうか? 受信カプセルから出てきた私はもちろんそのように信じているに違いありません。記憶がそのように連続しているからです。私の妻も友人も皆、受信カプセルから出てきた私を私であると認めるに違いありません。姿形も声も考え方も送信カプセルに貼った私と寸分違わないからです。

 さて、これからが本題ですが、この受信カプセルが二つあったとしたらどうなるでしょうか? 同時に二人の私が再生されてしまいます。どちらの私が本当の私でしょうか? どちらの私も、自分こそが本当の私であると確信しているはずです。

 送信カプセルに入った私が分解されてガスになってしまう、ということは私の死を意味します。そして、受信カプセルの中で複製される私は新たに誕生しているわけです。新生児と違うのは大人の体のまま生まれるということと私の記憶を伴っているということだけです。このように考えてみると送信カプセルの中で生滅した私の世界が、受信カプセルで生まれる世界として引き継がれる保証などないということに行き当るはずです。ある意味、これは魂の問題としてもよいかもしれない。そして霊魂が不滅であるとすれば、私の魂は受信カプセルのどちらかに引き継がれるのかもしれないけれども、全く関係のない新生児に引き継がれるのかもしれない。しかし、それは検証できる問題ではないし、霊魂が不滅であるかどうかも分からない。 言えることは、その時私であるものが私であるということだけです。
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死に向かって生きる

2017-03-01 06:07:14 | 公案

「死に向かって生きる」なんて言うとハイデガーみたいですが、昨日聴いた南直哉さんの講演のタイトルです。南さんはご存知の方も多いと思います。青森県の恐山の院代(副住職)をなさっている、いまや曹洞宗きっての論客です。講演の出だしをちょっと復元してみます。一つ一つの言葉は覚えていないので、大体の感じです。

こんな演題で人が集まるのかと思ってましたが、たくさん見えておられますねぇ。(聴衆の顔を見渡して) なるほど、お迎えの近い方が多いようですねぇ。( どっと笑う )   あの男は ( 死んだらどうなるかを ) きっと知っているに違いない、と思ってきたのでしょうね。きっと私が恐山の院代なんかやっているからでしょうね。なにせ、あの霊場、「れ・い・じ・ょ・う」の恐山ですよ。そこの役員かなんかをやっているぐらいだから、あの男が知らないはずがないと思うのでしょうね。しかし、( ここで声のトーンを一段と上げる ) そんなことぁ、分かるわけがない! 

‥‥‥‥ (  中略 ) ‥‥‥‥

死んだら、どっかへ行くわけですけど、たいてい門番みたいなのがいて、生きてる間に何をやったかチェックされますな。いわゆる閻魔帳ってやつです。それで、あんたはこっち、あんたはあっちと振り分けられるわけです。でも、( ここでトーン上がる ) し・ん・ぱ・い なぁいです。どっちへ行っても大したことありませんっ! 天国なんて、あなた、なんか雲の上でふわふわと、そんなの (トーン上がる )  お・も・し・ろ・いわけがないっ! えっ、地獄が怖い? 大丈夫っ! 苦しいのはすぐ慣れます。私は永平寺で地獄を20年間経験しましたっ。針の山、大したことありません。全然大丈夫、ちょっと痛いだけです。そういうのは慣れてくるんです。経験した私が保証します。

とまぁこんな感じです。下手な噺家よりよっぽど面白いです。90分間で30回は笑かしてもらいました。もしかしたら笑い過ぎて、せっかくためになること言ってくれたのに、肝心なことを聞き漏らしたかもしれません。

講演は横浜駅構内のルミネであったので、臨港パークを散歩して桜木町から電車で帰りました。

フルーツ・ツリー ( 臨港パーク 横浜 )

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公案に関する哲学的見解

2016-11-29 17:04:37 | 公案

公案名をクリックすると当該の記事にジャンプします。

 ① 非風非幡

 ② 久響龍潭

 ③ 百丈野鴨子

 ④ 倩女離魂 ( せいじょりこん )

 ⑤ 倶胝竪指(ぐていじゅし)

 ⑥ 婆子焼庵

 ⑦ 狗子仏性(趙州無字)

 ⑧ 庭前拍樹

   ⑨  百丈野狐(不落因果・不昧因果)

  ⑩ 隻手音声を聴け

  ⑪ 一日作さざれば一日食らわず


 ※ あくまで私個人の哲学的見解です。参禅の為には参考にしない方が良いでしょう。

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隻手音声を聴け

2016-08-05 09:57:02 | 公案

 「隻」とはひとつという意味である。対になっているものの片方を指す場合に使われる。隻眼とは片目のこと、隻手は片手のことである。

両手を合わせればパンと音がする。いわゆる拍手である。これが片手だともちろん音はならない。そのならない音を聴け、というのがこの公案の趣旨である。

この公案は日本臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師が考案したもので、臨済宗では修行の初めに、趙州無字かこの隻手音声のいずれかの公案が初関として与えられることが多い。

公案というのは常識的には無理なことが要求される。片手では音の鳴りようがないのだから聞くことはもちろんできない。それを何が何でも聞けというのだから、それは無理というものである。まともに考えればそれはできないことだから、最初は謎解きを解くようなつもりでいろいろと想像を巡らせる。しかし、それらはことごとく師家に拒絶される。師家は愚直かつ真剣に隻手音声を聞くことを要求するのである。

あらん限りの想像力を駆使しても師家はそれを受け付けない。ああでもないこうでもないという想像は論理に従っている。師家はその論理を超えることを要求しているからだ。その論理を超えるところを無理会という。

臨済宗の寺では毎日ことあるごとに、「無理会の処に向かって究きわめ来り究め去るべし」(「興禅大燈国師遺誡」(※注)) と唱和している。その無理会に到達しないことには禅は始まらないのである。 ついでに言えば、無理会に到達することにより、論理というものがどういうものであるかがよく見えてくるということもある。それは哲学についてもプラスだと思う。

その無理会は理屈の無い所であるから、ああだこうだと考えているうちは縁遠い。万策尽きて三昧に入ったときにはじめてそれが見えてくるのである。当ブログは宗教としての禅ではなく、あくまで哲学を論じるものであるから、このようなことに言及するのは本意ではないのだが、いろんなブログ記事で隻手音声について筋違いなことが論じられているのが少し気になったのである。

素人が公案についていろいろ想像をめぐらし、自分の見解を述べるのはかまわないと思う。例え見当はずれのことであっても自分の考えを述べるのは自由である。しかし、「禅」という言葉を冠にしてそれを商売のタネにしている人が、自己流の解釈を堂々と公表するのはいかがなものかと考えるのである。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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(※注)臨済宗の寺では坐禅の前後、食事の前後、ことあるごとに「興禅大燈国師遺誡」というものを唱える。大徳寺の御開山である大燈国師が遺言を和讃としてしたためたものである。

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百丈野狐(不落因果・不昧因果)

2016-06-29 10:25:33 | 公案

無門関の第二則である「百丈野狐」の公案を「臨黄ネット」より引用します。

百丈懐海禅師が、講座上で雲水達に向かって説法する時、いつも雲水達の後で静かに坐って聞く一人の老人がいました。

 講座が終わると老人も雲水と一緒に退出しますが、ある時、老人は退かず一人残ります。百丈和尚は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。

 老人が答えます。「実は、私は人間ではありません。ずうっと昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代、この寺の住職でしたが、ある時、一人の修行者が質問しました。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』と。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えました。その答えのゆえに五百生(五百回の生まれ変わり)もの長い間、野狐の身に堕とされました。なにとぞ、憐れと思うて私に代わって正しい見解をお示し下さい」と懇願します。

 老人は威儀を正して、「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」と問いかけます。
 百丈和尚、即座に、「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えます。
 老人は言下に大悟して野狐の身を脱します。

 

悟りを開くと自在の境地を得ると言われています。「修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるか?」と問われて、老人は「不落因果――因果の制約を受けない」と答えて、狐にされてしまった。それで、その狐となった老人は百丈禅師にどのように答えるべきだったかを訊ねたところ、百丈は「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えた。それを聞いた老人はたちどころに大悟して野狐の身を脱したという。

では、老人は最初から「不昧因果」と答えればよかったのだろうか?おそらくそうではないでしょう。この問題の本質を理解せずに、「不落因果」と独断してしまった、それが問題です。

ここでちょっと西洋哲学の方に目を転じてみましょう。ニュートンが万有引力の法則を発見し、いわゆるニュートン力学を完成すると、西洋哲学は非常に大きな問題にぶち当たりました。すべての現象が物理学によって説明されるのではないかと考えられたからです。もし人間の精神活動も脳内で起きている科学現象に還元されてしまうとしたら、人間に精神の自由はなくすべては機械論的世界観の中に組み込まれてしまいます。

プロシアの哲学者カントは、理性の限界について論じるために、4つのアンティノミーというものを提示しています。アンティノミーというのはふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態のことです。カントは以下の4つのテーマについてそれぞれ背反するテーゼとアンチテーゼが同時に成立することを証明しています。

 ① 世界の時間的な始まりと、空間的な限界があるのかどうか
 ② 世界の究極的な構成要素としての最小単位があるのかどうか
 ③ 人間の自由に基づいた因果関係があるのかどうか
 ④ 必然的な存在者(神)は実在するのか

上記のうちの3番目のアンティノミーが百丈野狐と同じ問題をテーマにしたものです。そのテーゼとアンチテーゼを中山元先生の訳で以下に引用します。

(テーゼ) 自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。現象を説明するためには、自由(意志)に基づいた因果関係についても想定する必要がある。

(アンチテーゼ) 自由(意志)というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則によって生起する。

テーゼが不落因果、アンチテーゼが不昧因果に相当するものと考えれば、これはまさに「百丈野狐」の公案でしょう。ちなみに、カントは他の三つのアンティノミーについてはテーゼもアンチテーゼもともに否定的に考えていましたが、この第3アンティノミーについてだけは肯定的にとらえていたようです。

≪このようにして自由と必然は、同じ行為について、それを叡智的な原因と比較するか(その時行為者は自由である)、感性的な原因と比較するか(その時行為者は自然の法則にしたがう)によって、いかなる矛盾もなく、その本来の意味において両立するのである。≫(純粋理性批判第2版569頁=中山元訳「純粋理性批判5 P.248)

正直に告白すると、2年前から純粋理性批判の同じところを何度も読んでいるのですが、第3アンティノミーについては今のところカントの思索を克明にたどるには至っておりません。今回は禅仏教と西洋哲学が同じ課題に重要な関心を持っていたことを紹介するにとどめたいと思います。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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