禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

隻手音声を聴け

2016-08-05 09:57:02 | 公案

 「隻」とはひとつという意味である。対になっているものの片方を指す場合に使われる。隻眼とは片目のこと、隻手は片手のことである。

両手を合わせればパンと音がする。いわゆる拍手である。これが片手だともちろん音はならない。そのならない音を聴け、というのがこの公案の趣旨である。

この公案は日本臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師が考案したもので、臨済宗では修行の初めに、趙州無字かこの隻手音声のいずれかの公案が初関として与えられることが多い。

公案というのは常識的には無理なことが要求される。片手では音の鳴りようがないのだから聞くことはもちろんできない。それを何が何でも聞けというのだから、それは無理というものである。まともに考えればそれはできないことだから、最初は謎解きを解くようなつもりでいろいろと想像を巡らせる。しかし、それらはことごとく師家に拒絶される。師家は愚直かつ真剣に隻手音声を聞くことを要求するのである。

あらん限りの想像力を駆使しても師家はそれを受け付けない。ああでもないこうでもないという想像は論理に従っている。師家はその論理を超えることを要求しているからだ。その論理を超えるところを無理会という。

臨済宗の寺では毎日ことあるごとに、「無理会の処に向かって究きわめ来り究め去るべし」(「興禅大燈国師遺誡」(※注)) と唱和している。その無理会に到達しないことには禅は始まらないのである。 ついでに言えば、無理会に到達することにより、論理というものがどういうものであるかがよく見えてくるということもある。それは哲学についてもプラスだと思う。

その無理会は理屈の無い所であるから、ああだこうだと考えているうちは縁遠い。万策尽きて三昧に入ったときにはじめてそれが見えてくるのである。当ブログは宗教としての禅ではなく、あくまで哲学を論じるものであるから、このようなことに言及するのは本意ではないのだが、いろんなブログ記事で隻手音声について筋違いなことが論じられているのが少し気になったのである。

素人が公案についていろいろ想像をめぐらし、自分の見解を述べるのはかまわないと思う。例え見当はずれのことであっても自分の考えを述べるのは自由である。しかし、「禅」という言葉を冠にしてそれを商売のタネにしている人が、自己流の解釈を堂々と公表するのはいかがなものかと考えるのである。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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(※注)臨済宗の寺では坐禅の前後、食事の前後、ことあるごとに「興禅大燈国師遺誡」というものを唱える。大徳寺の御開山である大燈国師が遺言を和讃としてしたためたものである。

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